無敵の不沈艦はなぜ沈んだ!
戦艦大和神話・戦艦武蔵!無敵の不沈艦はなぜ沈んだ!図面から見えた沈没の原因!
先日「戦艦大和神話」について記事にして投稿しましたが、
今日は大和と共に戦った戦艦武蔵について記述します。
武蔵は、大日本帝国海軍の大和型戦艦の2番艦。
この名を持つ大日本帝国海軍の艦船としては3隻目にあたります。
大日本帝国海軍が建造した最後の戦艦です。
2015年3月にフィリピン沖1,200mの海で、世界の研究者が探し求めていた巨大戦艦、武蔵が発見されました。
戦艦大和の姉妹艦であり“無敵の不沈艦”とまで呼ばれた武蔵はなぜ建造され、なぜ沈んだのか?
その真実に迫ります。
完成からわずか2年で海へ消えた「最強の戦艦武蔵」。
これが世界最強の戦艦武蔵の勇姿。
これが世界最強の戦艦武蔵の勇姿!!
発見したのはマイクロソフトの共同創業者で実業家の
ポール・アレン氏による海底探査プロジェクトチームです。
2015年3月。長年、世界の研究者が探し求めていたものが見つかりました。
日本海軍が誇る戦艦大和の姉妹艦として日本の命運を託されながらも、
多くが謎に包まれてきた巨大戦艦、武蔵だ。
全長5メートル、重さ15トンとも言われる巨大なイカリ、艦首に残されていた菊の紋章の痕跡、
甲板に貼られたヒノキの板、航海中の娯楽だったといわれる映画フィルム、乗組員が身につけていた軍靴・・・。
70年以上もの間、深海で眠り続けていた武蔵の腐食は、微生物の少ない低水温によって最小限に留められていました。
フィリピンのシブヤン海で見つかった。武蔵の艦首の菊の紋章。

フィリピンのシブヤン海で見つかった。武蔵の艦首の菊の紋章。
武蔵は、太平洋戦争末期、日米が激突した史上最大の海戦「レイテ沖海戦」の切り札として、日本の技術の粋を集めて建造され、1942年に完成。
そのわずか2年後の1944年10月24日に沈没しました。
しかし、武蔵の詳細な姿を捉えた写真や資料はほとんどない。
そのため、どのような戦艦だったのか、なぜ作られ、なぜ沈んだのかの詳細は分かっていませんでした。
そこでNHKは武蔵を発見した探索チームから100時間を越える未公開映像を入手。
最新の映像解析技術と、造船技師や歴史学者、爆発の専門家など7人の専門家の分析によって長い間、
謎に包まれてきた武蔵の実像に迫ったのです。
[最強・鉄壁だったはずの武蔵の誤算]
武蔵の建造が極秘裏に始まったのは、太平洋戦争勃発の3年前。
その最大の特徴は絶対に沈まない“不沈艦”と言われた設計だ。
内部は1,000以上の区画に細かく分かれており、多少の浸水では沈没しないうえ、
エンジンなどの心臓部を守る装甲板は世界一の厚さ。
それを破ることができるのは世界中を探しても、武蔵の主砲以外になかった。
今回の歴史的発見まで、武蔵は原形に近いまま沈んだと考えられていた。
ところが集められたデータによって、艦首と艦尾が見つかったほかは、粉々になって、
1キロ四方の広範囲にバラバラに散らばっていたことが明らかになったのです。
[なぜ武蔵は沈み、粉々に砕け散ったのか?]
謎を解明するため、NHKは入手した映像を1,000万枚の画像に分解し、
それらを組み合わせることで、武蔵の立体モデルを作成。完成した武蔵は全長263メートル、
基準排水量6万5千トン、ジャンボジェット機3機分もの大きさだった。
前方に世界最大の46センチ砲を2基、後方に1基を搭載し、主砲からの砲弾は42キロ先まで届いたとされる。
当時のアメリカの最新鋭の戦艦、アイオワ級の38キロをしのぎ、遠距離攻撃で敵をせん滅する戦術でした。
これが世界最強の46センチ砲です。
世界最強の46センチ砲です。
世界最大の46センチ砲を2基を発射、射程距離は42kmです。
巨大戦艦の全容!!
さらに武蔵は最強の防御力も誇っていて、40センチもの厚さの装甲板は、敵艦の砲撃からの衝撃を和らげるため、斜めに取り付けられていました。
建造を担ったのは日本最大の造船設備を誇っていた三菱重工長崎造船所。
4年の歳月をかけ、1942年に完成しました。
砲弾は僅か3発打っただけ!
世界最強の主砲!42kmが射程範囲!砲弾は僅か3発打っただけ!
技術の粋を集め、国の命運をかけて建造された武蔵。しかし、その命は余りにも短かった。
太平洋戦争末期、南方の重要拠点、フィリピン・レイテ島に侵攻するアメリカ軍をせん滅するため、
大和とともに出撃した武蔵でしたが、作戦の途中、シブヤン海で沈没しました。
戦艦同士の戦いならば、たしかに武蔵は世界一の攻撃力に加え、最強の防御力を誇っていました。
しかし、武蔵と戦ったのは戦艦ではなく航空機だったのです。
武蔵が沈没したシブヤン海。74年経った今も、ここで静かに眠り続けています!


武蔵が沈没したシブヤン海です!
日本の真珠湾攻撃によって、航空機が戦況を左右すると認識したアメリカは、事前に情報をつかみ、
パイロットたちに至近距離から魚雷を命中させる訓練を徹底。
一方、レイテ沖海戦の4か月前、マリアナ沖の海戦で空母3隻を失うなど壊滅的な被害を受けた日本は、
武蔵に護衛航空機をつけることができなかった。
このとき、海軍上層部の一部は武蔵が出撃したとしても、戦況を覆すのは難しいと認識していたようで、
武蔵がいた艦隊の参謀長は戦後、当時の作戦について、手記でこう振り返っています。
「レイテ沖海戦は、兵理(へいり)を超越して、ただ遮二無二突撃するという肉弾特攻戦であった!」
[幻の図面から見えてきた沈没の原因]
武蔵の姿を撮影した最後の写真からは、アメリカ軍の攻撃によって、艦首が沈み込んでいたことがわかっています。
しかし、シミュレーションによると、武蔵は艦首からの浸水だけでは沈まない。
ではなぜ、武蔵は沈没したのか?
武蔵は水中で大爆発しバラバラになった—–この艦首を残しただけで。
武蔵は水中で大爆発しバラバラになった—–この艦首を残しただけで!!
[70年間部外秘として扱ってきた詳細な内部の図面]
沈没の理由を解明する決め手になったのは、武蔵の建造にあたった三菱重工が初めて公開した内部の図面。
これによって海底に散乱していたのは、機関室のボイラーなど心臓部であることが明らかになり、
海底に映像からは船体の側面を覆っていた30メートルにも及ぶ装甲板の一部も見つかりました。
当時の溶接技術では分厚い装甲板をつなぐことができず、リベットと言われる鉄の留め具でつなぎあわされていたのです。
武蔵は戦艦の砲撃の角度に対しては強度を高めていましたが、航空機による魚雷は真横からの攻撃。
専門家は「複数の魚雷がつなぎ目付近を直撃」した結果、リベットがはずれ、
その隙間から浸水して沈没したのではないかと分析しました。
しかも海軍上層部はその弱点に気付きながらも、
対策をとらなかったことが、武蔵の建造に携わった人物の手記からもわかっています。
武蔵沈没の原因は、攻撃によって装甲板を破られたのではなく、分厚い装甲板をつなげていたリベットにあったのです。
しかし、武蔵にはもうひとつの謎が残っていて、
形をとどめたまま沈んだ武蔵が、なぜ、バラバラになっていたのか?
今回発見された沈没船武蔵の艦首です。
今回発見された沈没船武蔵の艦首です!
この点について、爆発研究所代表の吉田正典さんは武蔵が積んでいた火薬が水中で大爆発した可能性を指摘。
[主砲付近に大量の弾と火薬を積んでいた]
戦闘で主砲を撃つ機会がほとんどなかった武蔵には、160発以上の弾とそれを発射するための100トンの火薬が残っていたと見られる。
さらに、火薬の缶の残骸が海底に散らばる一方で、映像に映っていた主砲弾はわずか3発。
戦況を覆すための攻撃力があだとなって、武蔵は砕け散ったのだ!
武蔵は敵軍の艦船700隻と航空機1000機に狙われたが、その時、武蔵の護衛の航空機の姿は、一機もなかった!「武蔵」は魚雷20発を受けて沈没!!10代から20代の若者を中心に構成された武蔵の乗組員、およそ2,400人のうち、1,000人以上が戦死。
沈没時に救助された乗組員は、さらにフィリピン・ルソン島に向かわされ、アメリカ軍と激戦を繰り広げた。
陸上戦に投入された武蔵乗組員640人のうち、生き残ったのは50人に満たない—–無残。
70年以上もの間、フィリピン沖1,200mの深海で眠り続けてきた武蔵。
その姿は私たちに改めて戦争のむなしさを問いかけています。
無敵の戦艦「武蔵」は、実は弱点だらけで、こんな設計では使い物にならない—–それが無敵の戦艦と言われていたのには驚きです。
その弱点とは「リベットの不具合で浸水」や武蔵と戦ったのは航空機で、航空機との戦いは想定にはなかった!
これも大きな誤算。更に大量の火薬を積んでいて、その火薬が水中で大爆発。武蔵はほとんど戦わずして沈められたのです。
無敵の戦艦「武蔵」の真実を知れば知るほど、ダメな戦艦で無敵とは程遠い戦艦。
最強と謳われた主砲は42kmが攻撃範囲ですが、わずか3発発射しただけ—–その攻撃力がアダとなって、武蔵は砕け散ったのでした!
改めて戦争の虚しさだけが問われます!!
トラック島で戦時徴用船が、1944年2月17-18日にアメリカ軍の空爆を受けて全滅しましたが、その前に日本海軍はアメリカ軍の情報を掴んでいて、大和と武蔵はアメリカの空爆には耐えられないと日本に逃げ帰ってしまった。
あの時、武蔵と大和はトラック島に残り戦時徴用船を守るために—–戦っていれば、
こんな無残な最期にならなかったのにと、悔やまれます!!
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