これが日本が誇る・戦艦大和!果たして最強の・不沈艦だったのか?
日本が誇る・戦艦大和神話!果たして最強の・不沈艦だったのか?それが知りたい!!
私達の多くは、これまで「戦艦大和は最強の不沈艦」だと信じ知らされて来ました。
日本が誇る戦艦大和と武蔵は何故沈んだのか!
戦艦大和は本当に最強の軍艦なのか?どんな戦いがあったのか?
大和の最期はどんな戦いだったのか?知らないことだらけ?知りたい事だらけ!!
ですが実情は、かなりかけ離れていて戦艦大和は、時代遅れでしかも劣悪な戦艦で、
しかも殆ど戦闘をしておらず—–それは本当のことなのかと思い、よく調べてみることにしました。
大和は1940年8月に進水。開戦直後の1941年12月に就役した。
当時世界最大の46cmの主砲を備え、開発当時は「不沈艦」と称された最先端の戦艦だったが、
第二次大戦では戦艦同士の砲撃戦から、空母と航空機を主体とした戦いに時代は移り変わっていた。
無数の航空機の爆撃に晒され、自慢の46cm主砲が活躍する機会はほとんどなかった!
不沈艦大和は当時最新鋭の戦艦だったが、何故沈められたのか!
不沈艦大和は日本が誇る当時最新鋭の戦艦!
これが日本艦隊を代表する、もう一つの「不沈艦武蔵」の精鋭!
これが日本艦隊を代表する、もう一つの「不沈艦武蔵」の精鋭!
すでに日本の敗色が濃厚となっていた1945年4月「沈没前提の特攻作戦」として沖縄に向い、
アメリカ軍の攻撃で4月7日「鹿児島県沖で大爆発し沈没」した。
約3000人の乗員のうち生還したのはわずか276人だった!
戦争終盤、揺れに揺れるの日本軍の「哨戒長・臼淵大尉」の一言が、この議論を収束させます。
「 進歩のない者は決して勝たない。
負けて目覚めることが最上の道だ。
日本は進歩ということを軽んじすぎた。私的な潔癖や徳義にこだわって、真の進歩を忘れていた」。

実は時代遅れの劣悪な戦艦だった!
実は時代遅れの劣悪な戦艦だった!惨めにも・戦わずして沈められた!
おそらく戦艦大和についての最初の証言であろう本書に、すでに、戦闘にかんして大和がいかに劣悪な兵器であったかが証言されている。
それでどうして現在も「大和といえば日本の誇る当時最新の兵器という好評を得ているのか、不思議」でならない!
戦艦大和は建造された時から悲運を背負っていたように思われます。
日本が戦艦を使わずに空母からの艦載機による爆撃だけでハワイの真珠湾で
米・太平洋艦隊に大打撃を与えるなど大戦果を収めたことにより、戦艦のような巨艦を主体として艦砲攻撃による戦略よりも、
空母を主体として艦載機からの空爆による戦略の方が効果的であることが、
実証されていたにも関わらず、その8日後に戦艦大和が進水したのです。
その時点で悲しいことに「戦艦大和の役割は終わって」おり、
山本連合艦隊司令長官などは「大和建造中止を進言したもの」」受け入れられなかったと言われております。
米国は真珠湾で主力の戦艦を5隻も失いましたが、結果的にはこれによって
「空母建造に注力」することが出来て空母主体の機動艦隊を編成して、
ミッドウエー、レイテの海戦で大勝利を収めたのは—–皮肉なことでした。
戦艦大和はその後に建造された戦艦武蔵とともに日本海軍が世界に誇る最新鋭の巨艦で、
排水量72,800トン、当時世界最大で射程距離は実に42kmの46cmの巨砲9門以下計61の砲門を有し、
その建造は最高の国家機密として極秘裏に行われ、建造中の呉海軍工廠(現在の石川島播磨重工・呉造船所)が
国鉄呉線の車窓から見られないように、呉海軍工廠が見える区間に列車が差し掛かると車窓のシャッターを全車両とも下ろしたと言われているほどです。
連合艦隊の指揮艦となった戦艦大和は、世界最大の46cmの巨砲が火を吹く機会も殆どないまま
建造から4年の年月が流れ、73年前の、1945年4月7日を迎えることになりました。
その戦艦大和に出撃命令が下されました。
「菊水作戦」の中の「天1号作戦」と呼ばれるもので、
沖縄に突入して陸上を砲撃して敵上陸部隊を撃滅することにありましたが、
沖縄周辺には強力な大機動艦隊が終結していましたから、
この作戦が「成功する確率は殆どゼロ」に近いことを司令部は充分判っていたはずですので、
この作戦は当初から「海上特攻」として進められたとしか思えません。

片道の燃料しか補給されず!豊後水道に沈められた!
海上特攻として出撃し!片道の燃料しか補給されず!豊後水道に沈められた!
戦艦大和は「片道の燃料しか補給されない」まま3000余の将兵を乗せて、
軽巡洋艦「矢矧」=岐阜と愛知を流れる矢矧川から命名、駆逐艦8隻と船団を組んで徳山沖から、
豊後水道を経由して沖縄に向けて出航しました。
それが死出の航海を意味する海上特攻であることを
「出航後に告げられた将兵たちの思い」は如何ばかりだったのでしょうか!
戦艦大和撃沈後、護衛の駆逐艦に救助されて九死に一生を得て生還した吉田満少尉は、
名著とされる「戦艦大和の最後」の中で、戦艦大和の哨戒長・臼淵大尉の
次の言葉でその思いを代表させておりますが、私にはどうも納得できません。
戦艦大和の出撃は直ちに米軍に察知され、九州沖を航行中に米艦載機386機と潜水艦による
波状攻撃を受けましたが、米軍側は戦艦大和の構造的特徴を知っており、
その弱点をついてきたため「不沈戦艦」といわれた戦艦大和は、
爆弾6発、魚雷10本以上の直撃を受け、午後2時23分、
鹿児島県坊ノ岬沖160kmの地点で2498名の乗組員と共に430メートルの海底深く沈没していきました。
大爆発を起こし豊後水道の海底に沈む「不沈戦艦大和」!
魚雷10本以上の直撃を受け、大爆発を起こし豊後水道の海底に沈む「不沈戦艦大和」!

大爆発を起こして沈んだ、無残な戦艦大和!
大和最期 甲板で喘ぐ乗組員3000名!
大和最期 甲板で喘ぐ乗組員3000名!
戦艦大和の船腹は410ミリの分厚い鋼鉄で作られている上、1147に及ぶ防水区画が有るため
魚雷攻撃で浸水しても防水区画を閉鎖し反対側の防水区画に注水してバランスを採るという
当時の最先端の注排水システムにより浮上し続けることが出来たのでした。
そこで、米軍は左舷に魚雷攻撃を集中させることで、注排水システムが効かなくなることを狙ったのでした。
12時45分に魚雷が1本、左舷に命中、13時34分に雷撃機から放たれた6本の魚雷のうち3本が左舷に命中、
13時44分に2本がまたに左舷に命中したため大和は左に傾いたもの注排水システムで平衡を取り戻しました。
しかし、その直後に3本の魚雷が再び左舷にに命中して再び傾いた
大和にはバランスを取り戻す余裕は残っていなかったのです。
そして、14時17分に10本目の魚雷が左舷中央部に命中して大きく傾いた時点で、
長官は「特攻作戦中止命令」を下し「長官室に入って内側から鍵」をかけました。
14時22分「大和は横転して大爆発」を起こし、14時23分海底に沈んでいきました。
燃料不足に加えて戦力的価値が殆ど無く無用の長物と化した戦艦大和は、
そのまま敗戦になれば自爆させるか米軍に引き渡すしかないはずです。
持して死を待つより、陸軍に協力して沖縄の住民、兵士救援という名目で、
所詮は成功の見込みの無い作戦をたてて「戦艦大和に死に場所」を与えたと考えるのは勘ぐり過ぎでしょうか。
不幸な運命の下で生まれ、期待された戦果を上げることなく死場を求めて九州沖に散った戦艦大和、
せめてその死に際に、思う存分その巨大な砲門から思う存分46センチ砲弾を敵艦に向けて放って欲しかった。
でも、最後のこの海戦では僅か37発を放っただけで海の藻屑と消えたのでした。
あの時何故、連合艦隊はトラック 島から逃げ帰ったのか—–逃げるのではなく、連合艦隊は日本の最前線のトラック島を守り、多くの軍事徴用船を守るためにも、
戦艦大和と戦艦武蔵で、最強の米軍が誇るヨークタウンとアベンジャーと激戦を交えて欲しかった!!
心底そう思います!!!
悲しい歴史が伝へる「戦艦大和の最期」です!!
戦艦武蔵についても後日執筆します!
戦艦大和のについて書きつつ、沈みゆく駆逐艦若月と航空母艦瑞鶴の写真を載せる気持ち悪さといったらない。筆者が言うところの「惨めな」敗北を印象付けようと拾ってきた画像を張っただけで艦名すら知らないのだろう。戦争を指導した上層部はさておき、国の為に命を賭した将兵に対して「日本人」として畏敬の念が少しでもあったのなら、醜悪な自己顕示欲を満たすために大勢の日本人が散る間際の写真を決して利用したりしない。
同感です。僕も読んでいて気持ち悪く感じました。写真も一部大和沈没時の煙のみの写真で残りは全て違う写真でしたし。
山田さん コメント有難うございます。
実は 私の兄貴も この時期に フィリピンのルソン島で
戦死いたしました!
我が家にとっては 悲しい歴史です!!
山田太郎様
戦艦大和の記事を読んでいただきありがとうございます。私の長男も終戦間際の昭和20年5月に、フィリピンのルソン島で米兵との戦闘で敗れて、惨めにも命を落としました。親父が止めるのも押し切って「志願兵」として出兵した。我が家の悲しい悲しい歴史です!あなたが言うような自己顕示欲を満たすための記事では決してありません!勝手な推測はおやめ願います!!!