西寧で出会ったチベット族!東日本大震災を心配!四川大地震で、家と家族を失った!

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西寧のチベット族!


西寧で出会ったチベット族!3月に発生した東日本大震災を心配!自分たちも四川大地震で、家と家族を失い!

 

四川省の成都からチベット自治区の拉薩=らさ まで青蔵鉄道で移動しようとしていたその前日、

運行ルートが変わって出発地が西寧市=せいねい になったと連絡が入った。

私は急遽飛行機で西寧まで移動し、そこで半日を過ごさねばならなくなった。

西寧のことは何も知らないし調べてもいない。

不安だったが「現地ガイドがいますから大丈夫」と代理店は楽観的だった。

空港に迎えに来ていたのはどことなく気弱そうな趙さんという男性で、

案内されたのは運転席にお守りだの人形だのがぶら下がった、一般人の運転する車だった。

「急だったので知人の車を頼むしかありませんでした、申し訳ありません」と趙さんは何度も私に謝った。

最初に案内されたのは東関清真大寺というイスラム寺院だった。

その壮麗な佇まいと始めて見る中国のイスラム文化に私は圧倒された。

思いがけずに生のシルクロードの歴史に触れて興奮していると、趙さんも気を良くした私を見て、

自分は仏教徒だが、この寺院はわが町の誇りですとうれしそうな顔になった。

寺院の後、昼食をとるために入ったのは趙さんがよく訪れるという大衆食堂で、

座ったテーブルは他の客との相席だった。

突然、私の向かい側に座っていたおじいさんが、ゆっくりと突き出した口先から痰をそのまま床に落とした。

ギョッとして思わず超さんを振り返るが、彼は全く気にもしていない。

気を落ち着けてお茶をすすっていると、隣のテーブルに座っていた四人家族が、

私に「日本人か」と声をかけてきた。浅黒く焼けた肌に端正な顔立ちのその一家は、

青海省の奥地からやってきたチベット族だという。

日本人だと答えると「日本の大地震と津波とは大変でしたね」という。

その年の3月に発生した東日本大震災のことを指していた。

「実は自分たちも四川大地震で、家と家族を失いました。

これが四川大地震の惨状!

 

同じ地球の住民として、日本の辛さを思うと胸が痛みます」。

透き通るような虹彩の目をした父親が、

瞬きもせずに私を見つめながら語る言葉に、胸が詰まった。

家族は先に食事を済ませ、立ち去る間際に私にチベット語で何か言い、

趙さんが「グッドラック」だと教えてくれた。

わずか半日の私の西寧滞在ではあったが、自分にとっては今でも印象的な世界の街のひとつとなっている。 

日経新聞記事より。 漫画家・随筆家 ヤマザキマリ。 

そこでこの後、西寧のチベット族について詳しく調べてみます!

 

 

西寧市の人口は205万人!


西寧市・人口205万人!漢族、回族、チベット族、モンゴル族など!!!   

 

西寧市(せいねいし、中国語:西市、英語:Xining)は中華人民共和国青海省の省都。

五区からなる市区と三つの県から構成される地級市のひとつ。チベット名はཟི་ལིང་(シリン)。

省人民政府は本市の城中区にある。

人口205万人、青海省全人口518万人の40%に当り、漢族、回族、チベット族、モンゴル族などの民族が住む。

現在西寧市に住んでいる人は近年他省から移住した人が多いため、普通話(中国語)を話す者が多い。

また、チベット語話者も住んでいる。

[地理]  青蔵高原東部辺縁、黄河支流・湟水流域に位置する。

北は青海省海東市、南は同海北チベット族自治州と接する。

[歴史]  市域の主要部は、歴史的に河西回廊の一部分を構成してきた。

紀元前121年、前漢の霍去病将軍が市域に軍事拠点・西寧亭を築いたのが始まりである。

前漢末に西海郡が設置され、五胡十六国時代には南涼の国都となった。

隋代に西平・河源の二郡となり、唐代後半には吐蕃に占領された。

宋代に収復され西寧州が設けられたが、後に再び西夏に占領された。

清代には西寧府が置かれ、甘粛省に属している。

雍正のチベット分割以後、清朝の支配下に入った青海地方の青海モンゴル人や、

チベット系、モンゴル系の遊牧集団「四十族(玉樹四十族)」は、

この地に配置された西寧弁事大臣によって掌管されている。

1922年5月22日大地震があり、約20万人が死亡。

1929年、国民政府により甘粛省から切り離され、

青海地方と合して青海省が設置され、省都となる。

1950年西寧市人民政府が正式に成立、1999年湟中県、湟源県を合併した。

ツォンカ地方(湟中県)はチベット仏教ゲルク派の宗祖ツォンカパの生誕地で、

後、この地にクンブム・チャンパーリン寺が建立され、モンゴル、チベットからの巡礼者、修行僧が集い、

チベット六大僧院のひとつとして繁栄した。ダライラマ14世の出生地(西寧市湟中県)としても知られる。

[気候]  ケッペンの気候区分ではステップ気候に属し、標高2,275mに位置する高原都市のため、

夏涼しく、冬は非常に寒い。1月の平均気温は-6.5度、7月の平均気温は17.7度、

年平均気温は6.7度、年間降水量は373.8mmである。 

以上はウイキペディアより紹介しました。

 

 

青蔵鉄道で行くチベット族!


青蔵鉄道で行くチベットの旅!チベットのダライ・ラマ政権は完全な独立を模索!!

 

[青蔵鉄道で行くチベットの旅]

この旅行は、広瀬さんの友人である垣本さんからの提案で、3人で旅行する予定でした。

しかし、高山病に注意を払わなければならないことから広瀬さんにドクターストップがかかり、

垣本さまと池上の2人の旅行となりました。

西遊旅行の企画ツアーで添乗員1名を含む23人のグループでした。

成田発着組と関西発着組が中国広州で合流、1泊し翌日広州空港から西安経由で西寧へ、

帰路はラサ・クンガ空港から重慶経由で広州へ、1泊し翌日日本に戻りました。


<チベットの歴史についての概略>

7世紀なかば(隋代)、チベットの古代王朝(ソンツェン・ガンポ)がチベット人居住領域を統一し

(実質的なチベットの建国)、この国を「吐蕃」と呼んだ。

この古代王朝は842年に崩壊したが、その後も中国の人々は、清朝の康煕年間(1720年代)ごろまで、

この領域全体を吐蕃という呼称で総称し、あるいはこの領域を統治する勢力を吐蕃と称した。

おのソンツェン・ガンポ王に唐の皇族から嫁いだのが、後で出てくる文成公主であり(小昭寺を建立)、

ネパールから嫁いだティツン王女(大昭寺を建立)です。

17世紀ごろ、清朝時代にタンラ山脈とディチュ河を結ぶ線より南側に位置する地域を、

ダライ・ラマ5世を長としラサを本拠として1642年に成立したチベットの政府であるガンデンポタンの統治下に所属させ、

これ以降、チベットのうちガンデンポタンの管轄下にある範囲が西蔵と称されるようになる。

1912年の清国の滅亡後、チベットのダライ・ラマ政権は完全な独立を模索した。

そのような中で、中華民国歴代政権は、実効支配が及ばず、

実質上の独立国として存在していたチベットを「中国の一部分」だとする主張を行ってきた。

1949年に中華人民共和国を樹立した中国共産党は、「チベットは中国の一部分」として、

チベット全土の「解放」を目指して1950年に中国人民解放軍による軍事行動を発動しチベットを軍事制圧し

17ヶ条協定により、チベット全域が中華人民共和国の実効統治下に組み入れられた。

チベット政府は辛亥革命以来、チベット全域の領有と統合を主張していたが、

十七か条協定はガンデンポタンを「西蔵地方政府」と呼称している。

すなわち、この協定は、チベット国そのものの独立性を否定するとともに、

ガンデンポタンによる全チベットの統合をも拒否し、

チベットの一部分「西蔵」の統治機関としての地位しかみとめないことを打ち出すものであった。

西蔵自治区成立50周年!!

この協定では、ひきつづきガンデンポタンによる

「西蔵」統治(ダライ・ラマが、宗教と政治の両方の指導者として戴く体制)の継続をみとめ、

「西蔵」においては「改革を強要しない」ことを明示するものであったが、

「西蔵」の領域の外部におかれたチベット東北部のアムド地方(青海省、甘粛省西南部、四川省西北部)や、

チベット東部のカム地方東部(四川省西部、雲南省西北部)などでは、

1955年、「民主改革」や「社会主義改造」が開始された。

清末以来、反清、反中闘争を続けてきたカム地方の人々は、翌1956年より武装蜂起を開始、

一時的には中華人民共和国の軍事警察機関の一掃に成功する。

チベット動乱の勃発である。

カム人民の抗中蜂起に対し、中国人民解放軍はただちに反撃を開始、

戦火を避ける民衆や敗走する抗中ゲリラたちは、雪崩をうって、

まだガンデンポタンの統治下で平穏を保っていた「西蔵」へ逃げ込んだ。

カム地方出身の抗中ゲリラたちは、この地で初めて統一組織「チュシガンドゥク」を結成、

「西蔵」内の各地で人民解放軍の駐屯地や中華人民共和国の行政機関を襲撃する武力活動を展開した。

 

 

西寧・コルムド・ラサそして青海湖!


西寧曹家堡空港からの始まり!西寧からゴルムド/格麗木までのバス!!

 

ダライ・ラマ14世は、このような情勢の悪化に対し、十七か条協定の枠組みを維持することで、

かろうじて確保された「自治」をまもろうとつとめたが、1959年には事態は一層悪化、

ダライ・ラマ14世は人民解放軍の拉致を予測し、ラサを脱出した。

中国の国務院総理周恩来は「西蔵地方政府」の解散を布告、これに対しダライ・ラマ14世は、

国境を越える直前に「チベット臨時政府」の樹立を宣言し、インドへと亡命した。

中国によるチベット政府の行政機構や正規軍の解体と支配体制の樹立は1960年ごろまでにほぼ完了した。

一方、カム地方の出身者を中心に結成された抗中ゲリラチュシ・ガンドゥクによる

武力抵抗は、ネパール領のムスタンを拠点とし、そこからチベット各地に出撃する形で引き続き展開された。

その後、抗中ゲリラはダライラマの玉音テープを携えたチベット亡命政府の使者の説得に応じて

武装解除してムスタンより退去、抗中武力抵抗はここに終焉を迎えた。

チベット動乱にともない最高指導者ダライ・ラマ14世、

政府ガンデンポタンのメンバーらをはじめ多くの僧侶や一般農牧民たちがインドなどに亡命、

十数万人から成る亡命チベット人社会を形成するにいたる。このようななかにあって、

1965年に、西蔵自治区が成立した。

その後は、チベット亡命政府と中国政府との間の闘争など、

チベット独立運動の中でチベット問題はくすぶり続けている。

開発の進行と伝統文化

チベットには、青蔵鉄道が開通し、高速道路も建設され、

これが青蔵鉄道の列車!

中国政府は観光客の誘致を図っているが、文化の破壊が加速するとの懸念もある。

今回のラサ訪問で、チベット文化を感じるのは、

ポタラ宮、ジョカン、デブン・ゴンパ、セラ・ゴンパそしてノルブリンカそしてバルコルとその周辺であり、

ラサ駅周辺においては中国政府の開発が強く感じられた。

現在、カイラス山を通る自動車専用道路の建設や青蔵鉄道の延伸を中華人民共和国政府は計画しているが、

信者は「聖地が破壊される」と主張して中止を求める国際的な運動を展開している。

[西寧曹家堡空港からの始まり]

この旅行は、高山病予防を考慮し、ゆっくりとラサに向かう工程をとりました。

まず、西寧から専用バスで青海湖へ、ここで1泊。そして青海湖から茶カ塩湖を経てゴルムドへ、

西寧から青蔵公路(南路)800kmのバス移動でした。

ゴルムドで1泊、翌早朝、青蔵鉄道に乗りラサを目指して14時間(1142km)の列車旅行となりました。

青蔵鉄道に乗りラサを目指してひた走る!

大平原をひたすら走る、湖とヤクと羊の世界を見ながら、

豊富な水系に感動しながら長江の源流のひとつである沱沱河を渡り、

見たことのない真っ青な空を見上げ、世界一高いところを走る列車にのり、

崑崙山脈、タングラ山脈、ニェンチェン・タンラ山脈をこえ、

そして永久凍土のココシリ自然保護区を走り抜ける、まさに天空列車。

ラサに到着、ポタラ宮に代表される世界遺産を見学、ダライ・ラマの離宮を見学、

街中でチベット族の生活を垣間み、チベット三大聖湖のひとつである

ヤムドック湖をカンパ・ラ峠から眺めて,ラサ・クンガ空港から帰途となりました。

[西寧からゴルムド/格麗木までのバス]

西寧曹家堡空港(xining caojiabu jichang せいねいそうかほくうこう)から

専用バスで青蔵公路を一路青海湖を目指して発車。

西寧から約100km、日月山口標高3520mの峠に日月亭(日亭と月亭の二つの亭)があります。

7世紀の唐の時代にチベットの吐蕃に嫁ぐ文成公主が、

ここから先は草原が続くチベットだと悲しみ、中国に別れを告げた場所と言われています。

修復中でしたが見学はできました。

小さな土産物屋やヤクと一緒に写真を、と言ってくるおじさんたちがいました。

 

 

これがラサの街!


ゴルムド・格麗木からラサ・拉薩への鉄道の旅!ラサ・拉薩の町!

 

青海湖への途中、道端で蜂蜜を売っている店がたくさんありました。

菜の花の蜂蜜とのことで、1kgで160元(約2500円)でした。

少しなめてみましたが、おいしかったです。

14時ごろに西寧を出発、ホテルのある青海湖に到着したのは19時ごろ、少し休憩、散歩して遅い夕食となりました

中国は東西に大きい国でありながら時差はありません。

夜9時ごろまで明るかったです。

日の出は6時半ごろでした。


青海湖は中国最大の湖であり、

地球上でも米国ユタ州のグレートソルト湖に次いで2番目に大きな内陸塩湖です。

青海湖は中国最大の湖!

青蔵高原北東部に位置し、 面積5,694平方キロ、周囲360キロもある。

しかも、青海湖は海抜3,205メートルの高地にあり、周囲から大小23の河川が流入している。

湖水は平均水深約19メートル、最大水深28メートル、蓄水量1050億立方メートルと巨大である。

青海湖には1960年代、108の河川が湖に流入していたが、

2005年現在、湖に流入する河口部の85%は干上がっている。

湖の水位も徐々に低下しており、生態学的な危機にさらされている。

原因は周辺の過剰放牧、土地の開拓、その他の自然要因と考えられている。

おそらく地球温暖化も水位低下の遠因にあると思える。

その後、中国政府は膨大な人員と費用を投入し、水位が下降しないよう尽力しているという。

2004年以来、青海湖の水面は拡大しつつあり、2006年には88平方キロに拡大され、

翌2007年には130平方キロにまで拡大している、という中国の報道です。

西寧からの青蔵公路沿いではたくさんのヤクや羊、ラクダが放牧されていました。

私たちのバスはヤクの横断によっては行く手を遮られることもありました。

ここは橡皮山 3817mで西寧⇔ゴルムド間の最高地点です。

湿地や大小の川がありました。想像以上に水が豊富です、なぜでしょう。

茶カ塩湖、湖と塩で作った造形があるだけでした。

湖全体が塩、塩、塩・・・との事ですが。

なめてみましたが塩っ辛い。手をつけると、すぐに乾燥して手が真っ白になりました。

埋蔵量は4億5千万トン。

これは中国人の450年分の使用量に相当し、

世界中の人間の75年分の使用量に相当するという記事がありました。

国営の塩工場があり、遥か向こうから掘り出した塩をトロッコで運搬しています。

観光用のトロッコもありましたが、乗りたかった。

遠くに見えるのは、明日青蔵鉄道で超える崑崙山脈です。

ひつじ、ヤク、ラクダがたくさん放牧されています。

左の写真の草花ですが、中国名で狼毒花(俗称:饅頭花)

毒をもっているとのことで、動物はこれを食べません、知っているのですネ。

たくさん咲いていました。

ツアーのおばさんがバスの中に持って入ろうとしましたが、運転手からストップがかかりました。

[ゴルムド/格麗木(2800m)からラサ/拉薩(3600m)への鉄道の旅]  

これがコルムド駅!

さて待ちに待った青蔵鉄道、モーニングコール夜中3時、

列車出発:4時42分。広州発の列車T265号、満員、列車はゆっくりと動き出しました。

標高が上がるにつれて段々と頂きに万年雪を抱いた連峰が見えてきます。

崑崙山脈です。

中国の古典「封神演義」で仙人の住む聖なる山としてえがかれています。

玉珠蜂駅(4195m)の真後ろにそびえる玉珠蜂(6178m)が迫ってきます。

山間には氷河も見られます。

この後、山脈の景色を眺めながら、文成公主も通った青蔵公路と並走しながら、朝食です。

朝粥と焼きそば、目玉焼きでした。

長江の源流のひとつである沱沱河(標高4533m)を渡ります。いくつもの川を見ました。

標高の高い所で、しかも大平原、なぜこのように水が豊富なのでしょうか。

[ラサ/拉薩の町]  

ラサ/拉薩の町!

ラサは、チベット族エリアと漢族エリアに分かれていて、お互いの町並みは別の町かと思えるくらい異なります。

漢族エリアは、近代的な建物が立ち並んでいますが、チベット族エリアは、

ほとんどが白く塗られたチベット様式の家屋で、ジョカンを目指して巡礼に来ている人達で賑わっていました。

ホテルの前の通りである北京東路と林廓東路の交差点にいると、

右手でマニ車を回しながら左手に数珠をもってお祈りしながら歩くチベット人を多く見かけました。

よく見ているとジョカンを中心に右回りで歩いています。

チベット仏教は右回りが基本です。

バルコルとはジョカン(大昭寺)のまわりをぐるりと巡る道のことで、

日中、衣類や日用品等の生活必需品、土産物、灯明用バターやマニ車等の仏具を扱った多くの店がオープンしています。

またバルコルは地方から巡礼に来た人々の巡礼道でもあり、マニ車を回しながらコルラしている人が多数いました。

コルラとは、聖地(ジョカン)を周回する巡礼路(バルコル)を祈りながら(マニ車を手に持って時計回りに回しながら)歩くこと。

必ず時計回りで、五体投地しながら進む人も多い。

セラ寺のチョルテンでも大勢の人がコルラしていました。

オム・マニ・ペメ・フム・・・人々がよく唱える真言、日本の「南無阿弥陀仏」と同じように使われています。

夕食レストランの真向かいに出ていたアクセサリー等の土産物売りのおばさんでチベット人。

何やら話しかけてくるのでしばらく相手になっていました。

結局、腕輪とペンダントトップを買ってしまいました、約1000円。まあまあ面白かった。

最初は写真はダメ、と言っていたが、最後はまあまあ。

すると隣の隣の店のおばさんや寄ってきて、手を引っ張っていくので、また買わされると思い早々に逃げ帰りました。  

旅行記 ページへ>

青蔵鉄道で行くチベットの旅より紹介しました。

 

 

これが中国最大の湖の青海湖!


青海湖は中国最大の湖で・米国ユタ州のグレートソルト湖の次の2番目に大きな内陸塩湖!!

 

今日のまとめ!

四川省の成都からチベット自治区の拉薩=らさ まで青蔵鉄道があります。

最初に案内されたのは東関清真大寺というイスラム寺院だった。

その壮麗な佇まいと始めて見る中国のイスラム文化に私は圧倒された。

西寧市=せいねいし は中華人民共和国青海省の省都。

五区からなる市区と三つの県から構成される地級市のひとつ。

チベット名は(シリン)。

省人民政府は本市の城中区にある。

人口205万人、青海省全人口518万人の40%に当り、漢族、回族、チベット族、モンゴル族などの民族が住む。

青蔵鉄道で行くチベットの旅。チベットには、青蔵鉄道が開通し、高速道路も建設され、

中国政府は観光客の誘致を図っているが、文化の破壊が加速するとの懸念もある。

今回のラサ訪問で、チベット文化を感じるのは、ポタラ宮、ジョカン、デブン・ゴンパ、セラ・ゴンパそして

ノルブリンカそしてバルコルとその周辺であり、ラサ駅周辺においては中国政府の開発が強く感じられた。

西寧からゴルムド/格麗木までのバスがある。

西寧から約100km、日月山口標高3520mの峠に日月亭(日亭と月亭の二つの亭)があります。

7世紀の唐の時代にチベットの吐蕃に嫁ぐ文成公主が、ここから先は草原が続くチベットだと悲しみ、中国に別れを告げた場所と言われています。

青海湖は中国最大の湖であり、地球上でも米国ユタ州のグレートソルト湖に次いで2番目に大きな内陸塩湖です。

青蔵高原北東部に位置し、面積5,694平方キロ、周囲360キロもある。しかも、

青海湖は海抜3,205メートルの高地にあり、周囲から大小23の河川が流入している。

青海湖には1960年代、108の河川が湖に流入していたが、

2005年現在、湖に流入する河口部の85%は干上がっている。

湖の水位も徐々に低下しており、生態学的な危機にさらされている。

結氷し始めている青海湖だが水位が低下して危機にさらされている!

ラサは、チベット族エリアと漢族エリアに分かれていて、お互いの町並みは別の町かと思えるくらい異なります。

漢族エリアは、近代的な建物が立ち並んでいますが、チベット族エリアは、ほとんどが白く塗られたチベット様式の家屋で、ジョカンを目指して巡礼に来ている人達で賑わっていました。

コルラとは、聖地(ジョカン)を周回する巡礼路(バルコル)を祈りながら歩くこと。

必ず時計回りで、五体投地しながら進む人も多い。セラ寺のチョルテンでも大勢の人がコルラしていました。

セラ寺のチョルテンでも大勢の人がコルラしていました。

オム・マニ・ペメ・フム・・・人々がよく唱える真言、日本の「南無阿弥陀仏」と同じように使われています。

以上は西寧のチベット族について紹介してきました。

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私はかなり高齢な建築家です。出身は伊豆の湯ヶ島で多くの自然に触れて育ちました。少年時代の思い出も記事になっています。趣味が多くカテゴリーは多義に渡ります。今は鮎の友釣りにハマっています。自然が好きで自然の中に居るのが、見るのが好きです。ですので樹木は特に好きで、樹木の話が多く出てきます。 電子書籍作りも勉強して、何とか発売できるまでになりました。残り少ない人生をどう生きるかが、大事です。