砂漠の果ての古代都市!植民都市・ドゥラ・エウロポス!絶壁の直下はユーフラテス川!

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砂漠の果ての古代都市!ドゥラ・エウロポス!


砂漠の果ての古代都市!植民都市・ドゥラ・エウロポス!絶壁の直下は・ユーフラテス川!

 

植生の乏しい乾燥した荒地や石や岩が地表の果てまで散らばり、ところどころに岩肌が幹だしの小高い丘が見える、

そんなシリア砂漠を運転手ムハンマドは私たちを乗せひたすら東へ向かっていた。

同じ方向を目指して走る車が、一台もない中で、時々我々の方向と逆へ向かう砂埃だらけの車とすれ違う。

イラクから逃げてきた人たちだ、とムハンマドが言う。

ちょうどサダム・フセイン政権下のイラクに有志連合が軍事侵攻を始めた春、

こんな時期にイラクの国境方面に向かうなんて無茶でしたかね、と助手席の夫が気まずそうに話しかけると、

老齢のドライバーは「今行かなかったら、いつまたこんな機会があるかわかりません」

と無謀な旅の計画に自分が巻き込まれたことを責めるでもなく、

ダマスカス育ちで一度も訪れたことがない場所だから、楽しみです、と穏やかな様子だった。

セレウコス朝が築いた帝政ローマの植民地ドゥラ・エウロポス

断崖絶壁の直下には大きく畝ったユーフラテス川が滔々と流れ、

滔々と流れるユーフラテス川。

周辺には二千年近く前に築かれたレンガの壁や要塞の軌跡が、毅然とした佇まいで残されている。

荒涼としたシリア砂漠の東の果てに確固たる存在感を今にとどめる都市の骨格を見れば、

ここがかつてどれだけ重要視され、そして繁栄していたのかを想像するのは難しくない。

ローマに支配されていた頃、、オリエントと西の地域を繋ぐ重要な拠点となっていたこの土地には、

あらゆる地域の文化と宗教とがもたらされていた。

ギリシャの神々を祀る神殿にローマ軍の兵士たちから圧倒的な信仰を集めていた太陽神ミトラの神殿。

鮮やかな壁画の残るユダヤ教のシナゴークに、キリスト教信者のための聖堂。

さらにフェニキアを起源とするバアル神の神殿。

バアル神の神殿に描かれたフレスコ画。

古代には可能だった多様な宗教の共存が現代では叶えられないのはなぜなのか。

ササン朝が進行してきた当時のままだという崩れた壁の前に行き着いた時、

しばらく黙って壁を見上げていたムハンマドが「こんなに時間が経っても戦争は終わらない」とアラビア語で呟いた。

あの旅から17年、ムハンマドとは全く連絡が取れなくなってしまったが、彼の言葉通りあの機会を逃していたら、

私たちはおそらくあの古代都市を知ることもなかっただろう。

以上は日経新聞のヤマザキ マリさんの記事より。

シナゴーグとは、ユダヤ教の会堂のことである。

ギリシャ語のシュナゴゲーに由来する。

聖書には「会堂」の名で登場し、ユダヤ教会と俗称されることもある。

キリスト教の教会の前身であるが、役割はやや異なる。

元々は聖書の朗読と解説を行う集会所であった。 ウィキペディア。

 

 

ドゥラ・エウロポスのベル神の神殿跡。


「エウロポスの砦」後にパルティアに征服され!20世紀に発掘がはじまり!考古学的に重要な派遣が!

 

ヤマザキ マリさんの記事に従いさらに詳しく調べます。

ドゥラ・エウロポス(Dura-Europos、「エウロポスの砦」)は、

この位置にドゥラ・エウロポスです。

ヘレニズム時代からパルティアおよびローマ帝国の支配下の時代にかけて繁栄した古代都市。

その遺跡は現在のシリア東部、イラクとの国境付近にあり、

遺跡は現在のシリア東部、イラクとの国境付近。

ユーフラテス川右岸(南岸)の高い断崖上の平地に位置する。

ドゥラ・エウロポスはセレウコス朝が築き、後にパルティアに征服され大きな町となった。

116年にトラヤヌス帝の遠征でローマ帝国に編入され、一時はパルティアが奪還したが、

164年にルキウス・ウェルスの遠征で再度ローマ領となった。

2世紀後半から3世紀にかけてはローマの東部国境の軍事拠点としてきわめて重要な植民都市になった。

しかし3世紀前半にサーサーン朝によってパルティアが倒れローマを圧迫するようになり、

257年にはシャープール1世の遠征で陥落し、以後廃墟のまま放棄された。

20世紀前半にドゥラ・エウロポスの発掘が始まり、考古学的に重要な発見が次々になされた。

256年から257年にかけてのサーサーン朝による征服で放棄されて以降、

ドゥラ・エウロポスには建物などが建てられることはなかったため、

後世の住居や要塞建築などが残り、他のローマ都市のような、古代都市の上に新たな施設等が建設され、

古代の都市計画を分かりにくくするという事柄が起こらず、

このためローマの植民都市の姿を知る上で貴重な遺跡となった。

また帝国の辺縁にあるという立地のため、

ギリシア、ローマ、パルミラ、シリア、ペルシア、オリエントなど異なった文化がこの町には共存しており、

 

その遺物も遺跡から多く見つかった。

様々な文化に由来する神々に捧げられた神殿、

ユダヤ人が建てたシナゴーグ、ローマの軍事植民都市によく見られるミトラ教神殿、壁飾り、碑銘、軍の装備、墓所、

そしてドゥラ・エウロポスが滅ぼされた攻囲戦の痕跡などもこの遺跡からは発見されている。

[地形]

都市遺跡はユーフラテス川から切り立った崖の上にあり、ユーフラテスの流れを見下ろすことができる。

ドゥラ・エウロポスの城塞。ユーフラテス沿いの崖の上に建つ!

崖の上の平らな土地が都市になっているが、その北と南に深い谷(ワジ)がユーフラテス川に向って落ち込んでいるため、

都市の広がりの限界になっているとともに都市を守る天然の濠となっている。西はシリア砂漠に向けて平地が続いている。

町の中にもいくつかの谷やワジがユーフラテス川沿いの崖へ向かって走っており、

市街地とアクロポリスおよび城塞を分ける境界線になっている。

ユーフラテス沿いの地方は豊かな農地が続いているが、ドゥラ・エウロポスのある崖の上は砂漠地帯である。

市街地は、ユーフラテスの崖に沿うように南東から北西へ走る通りと、

平地から崖に向かう南西から北東へ向けて走る通りが直行しており、碁盤目状の街並みを形成している。

町の東側は、ワジがいくつかあり起伏もあるため直行する街路が途切れており、

断崖とユーフラテスを背にした堅固な要塞などが並ぶ。

町の西側は繁華な地区で、これらはすべて城壁で囲まれている。

東・北・南は崖に囲まれた地形であるため、サーサーン朝による最後の攻撃は砂漠に開けた西側から行われている。

 

 

ドゥラ・エウロポスのシナゴーグ跡から発見されたフレスコ画。

シナゴークのフレスコ画!


ドゥラは集落のこと!211年に軍事都市になり!シナゴーク!フレスコ画が残った!

 

[都市の歴史] ドゥラ(Dura)、ドゥル(Duru)、デル(Der)、ドル(Dor)は、

ヘレニズム期以前のバビロニアやアッシリアの集落に共通する地名であり「集落」を意味する。

この遺跡からはバビロニア末期の円筒印章や楔形文字の書かれた粘土板なども出土しているが、

ヘレニズム期以前の建築物の跡は現在見つかっていない。

ヘレニズム期の初期には、マケドニア王国の退役兵らがこの地を与えられ植民集落を築いたとみられる。

[ローマ植民都市] ローマとパルティアの国境都市であるドゥラは、

この地の行政と交易の中心であった一方で、両帝国の争奪の地にもなった。

115年/116年にはローマ帝国のトラヤヌス帝がドゥラを征服し凱旋門を建てたが、

その支配は短く、トラヤヌス帝存命中の121年にはパルティアにより回復された。

160年に大きな地震に襲われた後、164年にはルキウス・ウェルスの遠征で再びローマ領となったが、

当初は間接支配だったとみられる。

セプティミウス・セウェルス帝は195年、ドゥラをシリア・コエレ属州に編入した。

市内の北部には軍団の駐屯地が作られ、カストルム(兵営)やプラエトリウム(軍団司令部)が置かれた。

さらに市街地の大半も作りなおされ、城壁も強化された。

211年にはドゥラはコロニアとなった。

コレがコロニア??

軍事都市となったドゥラでは新たな神殿建設も止まり、経済もしばしば沈滞した。

この時期、ドゥラにはドゥクス(軍団指導者)が置かれていたとみられる。

ドゥクスはシリア地区の国境線を防衛する一方、町の行政も行っていた。

[陥落と放棄] 253年にはパルティアを倒したサーサーン朝がドゥラに一度目の攻撃を仕掛けた。

256年から257年には二度目の攻城戦が行われ、ローマ軍は市内に立て篭もったが、

サーサーン朝軍はトンネルと塹壕を掘ってこれを攻撃した。

陥落後、273年にはドゥラは放棄された。

これはユーフラテスの川筋が変わったことにも一因があったとみられる。

この戦いについては文書による記録は残っていないが、発掘の結果詳しい経緯が分かるようになっている。

サーサーン朝軍は砂漠に面した市の西壁の前に陣取り、

トンネルを掘って上にある城壁を崩し突破口を作ろうとした。

守るローマ軍はこれを見越して、城壁沿いの市街地を取り壊し、その瓦礫で城壁を支えることにした。

この時にキリスト教聖堂、シナゴーグ、ミトラ教神殿をはじめとする建物や家が埋められ、

結果としてフレスコ画などが後世に残ることになった。

シナゴークのフレスコ画??

さらに城壁の補強のため外からも土の山で支えて斜堤(glacis)を築き、

日干しレンガで覆って浸食を防ごうとした。

 

 

城壁に沿った地中回廊??


サーサーン朝!城壁に沿って地中回廊を築いた!フランス・シリア合同の調査隊が再開!

 

[南の谷を見下ろす城壁跡]

256年、シャープール1世率いる軍による攻撃が開始された。

シャープール1世は工兵に、ドゥラの正門であるパルミラ門から二つ北にある塔、

考古学者が第19塔と呼ぶ塔の下にトンネルを掘らせた。

これに気づいたローマ軍は逆にトンネルを掘り、サーサーン朝軍の掘るトンネルにぶつけ、

城壁を掘り崩そうとするサーサーン朝の兵を攻撃しようとした。

ローマ軍の逆トンネルがサーサーン朝軍のトンネルを掘りあてると、

すでにサーサーン朝軍は城壁に沿って複雑な地中回廊を築いていた。

サーサーン朝軍はローマ軍の攻撃を撃退したが、ローマ軍は逃げようとする兵に気づいて逆トンネルを封鎖した。

負傷者や地中で迷った者はトンネル内で死んだが、

この時のローマ兵やローマの硬貨がトンネル内で見つかっている。

この逆トンネル作戦は成功し、サーサーン朝軍は第19塔地下のトンネルを放棄した。

次にサーサーン朝軍は西壁最南端の第14塔を攻撃した。

第14塔は町の南の深い谷間を見下ろしていたが、攻撃側はこの谷間から塔を攻めた。

これが南の谷を見下ろす城壁跡!

今度はトンネル作戦が成功し、塔とその付属の城壁が沈下を始めた。

しかしローマ軍が事前に城壁を補強していたために城壁は崩壊を免れた。

サーサーン朝軍は三度町への侵入を試みた。

第14塔を攻めるために攻城塔が組み立てられたが、

ローマ軍は攻城塔の城壁への接近を止めるため盛んに攻撃した。

一方サーサーン朝軍は攻城塔の近くでトンネルを掘り始めたが、

これは城壁を崩すためではなく(城壁は補強されていたため容易に崩れないことがサーサーン朝軍にも分かってきた)、

城壁内に兵士を送るためのものだった。

四人が肩を並べて進めるほどの幅のトンネルがついに市内にまで貫通し、これがドゥラ陥落の決定打となった。

サーサーン朝兵が攻城塔に上って城壁を攻撃し、ローマ軍のほぼ全軍が城壁上でこれを撃退しようとしていた時、

トンネル内のサーサーン朝兵は抵抗なく市内に侵入しドゥラを制圧した。

ドゥラの生き残りはクテシフォンへ連行されて奴隷に売られ、ドゥラが再建されることはなかった。

研究者の2009年の主張によれば、サーサーン朝軍は一種の毒ガスも使用したとみられる。

ドゥラの発掘の過程で城壁地下から20体ほどのローマ兵の遺体が発見された。

レスター大学の考古学者は、サーサーン朝軍は瀝青や硫黄の結晶に火をつけて有毒のガスを発生させ、

トンネル内をガスで満たして城内へ拡散させたと見ている。

[遺跡の発掘]

ドゥラ・エウロポスの存在は文献資料を通じて古くから知られていたが、その場所は不明とされていた。

アラブ反乱の余波が残る第一次世界大戦後の1920年3月30日、

ジェラルド・マーフィー大尉指揮下のイギリス軍部隊が塹壕を掘っている最中に色鮮やかな壁画を掘り出すまで、

この遺跡は砂に埋もれるままになっていた。

ドゥラ・エウロポスの建物跡。

当時バグダッドにいたアメリカの考古学者ジェームズ・ヘンリー・ブレステッド(James Henry Breasted)

はこの話を聞き機敏に動いた。

1920年代から1930年代にかけて、アメリカ合衆国とフランスの考古学チームが発掘を行っている。

1922年-1923年に調査結果を発行したフランツ・キュモン(Franz Cumont)率いるチームがこの遺跡をドゥラ・エウロポスと同定し、

神殿跡も発掘したが、シリア・イラク地域の政情不安により考古学調査の立ち入りも禁止された。

後にミハイル・ロストフツェフ(Michael Rostovtzeff)率いるイェール大学と

フランス学士院碑文・文芸アカデミー(Acad-mie des Inscriptions et Belles-Lettres)の調査隊が活動を始めたが、

1937年に資金が底をついたため遺跡の限られた部分の調査結果しか発行できなかった。

第二次世界大戦による長い中断をはさんで、1986年にはフランス・シリア合同の調査隊により発掘が再開されている。

しかしシリア内戦後は武装勢力の支配下に置かれるようになり、

過激派組織ISILなどの支援によって組織的な盗掘が大規模に行われている。

2014年6月にアメリカ合衆国国務省が発表した衛星写真は、

都市遺跡のほぼ全区画が穴だらけになっているさまが写されている。 ウイキペディアより。

 

 

ドゥラ・エウロポスの通り。


二千年前の要塞の軌跡が!毅然とした佇まいで残されていた!こんなに時間が経っても戦争は終わらない!!

 

今日はヤマザキ マリさんの記事より。

砂漠の果ての古代都市「植民地ドゥラ・エウロポス」について詳しく調べてみました。

ドゥラ・エウロポスは断崖絶壁の真下をユーフラテス川が滔々と流れる周辺には、

二千年近く前に築かれたレンガの壁や要塞の軌跡が、毅然とした佇まいで残されている。

ローマに支配されていた頃、オリエントと西の地域をつなぐ重要な拠点になった。

ギリシャの神々を祀る神殿にローマ軍の兵士たちから圧倒的な信仰を集めていた、

太陽神ミトラの神殿に、鮮やかな壁画の残るユダヤ教のシナゴークに、キリスト教信者のための聖堂があった。

古代には可能だった多様な宗教の共存が、現代に叶えられないのはなぜかの疑問が残った!

ムハンマドはこんなに時間が経っても戦争は終わらないと呟いた!

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私はかなり高齢な建築家です。出身は伊豆の湯ヶ島で多くの自然に触れて育ちました。少年時代の思い出も記事になっています。趣味が多くカテゴリーは多義に渡ります。今は鮎の友釣りにハマっています。自然が好きで自然の中に居るのが、見るのが好きです。ですので樹木は特に好きで、樹木の話が多く出てきます。 電子書籍作りも勉強して、何とか発売できるまでになりました。残り少ない人生をどう生きるかが、大事です。