皇帝の守り人・兵馬俑!死後の世界で皇帝を永遠に守るために副葬された俑=人形!!

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皇帝の守り人・兵馬俑!死後の世界で皇帝を永遠に守るために副葬された俑=人形!

皇帝の守り人・兵馬俑!死後の世界で皇帝を永遠に守るために副葬された俑=人形!!

 

中国・西安市近郊の「兵馬俑=へいばよう」。

死後の世界で皇帝を永遠に守るために副葬された俑=人形 のうち、兵士や馬を形取ったものだ。

漢の時代の皇帝とその皇后を葬った陵墓を発掘し、遺跡自体を整備した漢陽陵博物館で陵内部の見学が可能。

そこから出土した数千もの兵馬俑、侍女俑、動物の陶製埴輪=はにわ など、さまざまな埋葬品が納められていた場所を実際に見ることができる。   

行き方ー成田空港ー西安医用国際空港 直行便で5時間ー車で約30分。

 

 

兵馬俑の職人、ギリシャ人芸術家が訓練か!

兵馬俑の職人、ギリシャ人芸術家が訓練か!「雑技俑」や、青銅製のカモ、ハクチョウ、ツルの像には、ギリシャの影響!!

 

[兵馬俑の職人、ギリシャ人芸術家が訓練か]    

「広さは山手線の内側に匹敵、姿を見せ始めた巨大陵墓」 

中国北部の土の中から謎のやきものの像が最初に発見されてから、今年で40年あまりになる。

考古学者たちは、これらの像が、中国最初の皇帝である秦の始皇帝(紀元前259年~紀元前210年)の

陵墓の副葬品であることを明らかにしたが、土の中に隠されていた秘密はそれだけではない。

発掘調査からは歴史書を書き換えるような大発見もあったし、外国人の芸術家が中国人の職人を訓練したとする大胆な新説も生まれた。

多くの王国に分かれていた中国を初めて統一し、氏族を基にした封建制に終止符を打った秦の始皇帝は、中国史の中でひときわ大きく輝いている。

彼が建設した万里の長城は、その強大な権力の象徴だ。

(参考記事:「世界最古の十進法の計算表、中国で発見」)

しかし、始皇帝の最も驚くべきプロジェクトが初めて明らかになったのは、1974年のことだった。

秦朝の首都だった咸陽(かんよう)の近くで井戸を掘っていた農夫たちが、土の中から奇妙な像をいくつも掘り出したのである。

その後の発掘調査により、これらは皇帝の陵墓を永遠に守護するために周囲に埋められた兵馬俑の一部であることが明らかになった。

俑とは、死者を守るために共に埋められる人形のことだ。

発掘された3つの巨大な坑には、数千体の兵馬俑が整列していた。

兵馬俑の造形は、それまでに中国で発掘されていたどの俑とも違っていたため、研究者たちを大いに悩ませた。

兵馬俑を製作した芸術家たちは、どうしてこんなアイディアを思いついたのだろうか?

「色鮮やかな兵馬俑」!

(参考記事:「色鮮やかな兵馬俑」)

芸人をかたどった「雑技俑」。

一部の専門家は、細部までリアルに作り込まれた俑に、ギリシャ芸術の影響を見ている。

(PHOTOGRAPH BY BROOK LAPPING PRODUCTIONS)

謎を解くためのヒントになりそうな発見もあった。

芸人をかたどった「雑技俑」や、青銅製のカモ、ハクチョウ、ツルの像には、ギリシャの影響が見てとれる。

そして、中国北西部の遺跡から出土した人骨からはヨーロッパ人のDNAが確認されているのだ。

一部の専門家は、これらの事実を考え合わせ、兵馬俑は外国の芸術家からインスピレーションを得て作られたのではないかと唱える。

マルコ・ポーロより1500年も前に、ギリシャ文化の影響を受けた西アジアから中国にやってきた芸術家が、

始皇帝陵の副葬品を製作する中国の職人たちを指導していたのかもしれないというのだ。

(参考記事:「2500年前の墓から完全な大麻草13本を発見」)

[見えてきた巨大陵墓]  

科学者たちは、リモートセンシング、地中レーダー、ボーリング調査などを用いて、

始皇帝陵がこれまで考えられていたよりはるかに大きく、その広さは約100平方キロメートルと

山手線の内側に匹敵することを明らかにした。

中心部には始皇帝の墓を土で覆った巨大な墳丘があるが、まだ調査が行われたことはない。

遺跡には、始皇帝以外にも多くの人々が埋葬されている。

30年におよんだ陵墓の建設中に死亡した職人や労働者(中には鎖につながれた罪人もいた)の

遺体を埋葬したらしい集団墓地や、凄惨な後継者争いの物語を伝えているように思われる集団墓地も発見されている。

[労働者の集団墓地]  36年におよぶ陵墓の建設中に死亡した職人や労働者が埋葬されている。

一部の遺体には、氏名や身分や出身地を記した陶製のタイルが添えられていた。

NATIONAL GEOGRPHIC。

 

 

 

鮮やかな彩色を再現!兵馬俑坑は咸陽の郊外、今の西安市にある!

鮮やかな彩色を再現!兵馬俑坑は咸陽の郊外、今の西安市にある!!

 

[兵馬俑3次調査、鮮やかな彩色を再現]   

兵馬俑坑は、紀元前221年に中国を統一した秦の始皇帝の陵墓周辺にある。

兵士や馬などをかたどった陶製像(俑)が大量に出土しており、陵墓を守るために埋葬された兵士軍団と考えられている。

兵馬俑坑は1974年の発見以来、発掘が断続的に続けられてきた。

2009年に始まった第3次調査では、等身大の兵士像百体あまりが新たに発掘されたほか、

陶製の馬、戦車、武器、太鼓などが確認された。

また、実際の兵士が使っていたと見られる革製の盾も初めて出土した。 

兵馬俑は、秦の始皇帝が敵対する隣国を次々と征服し中国統一を果たした際の主力軍を模したと言われている。

古代中国では、死後も生前と同様の生活が続くと考えられていた。

アメリカ、スタンフォード大学のアルバート・E・ディエン(Albert E. Dien)氏によると、

始皇帝は死後の世界でも皇帝に君臨し続けることができるよう、兵馬俑を陵墓周辺に副葬させたという。

始皇帝が埋葬された当時、これらの俑には見事な彩色が施されていた。

鮮やかな塗料がかなり残っている俑も発見され、考古学者らを驚かせたという。

鮮やかな塗料がかなり残っている俑も発見され、考古学者らを驚かせたという。

以前に発掘された兵馬俑は、顔料が酸化して色がほとんど失われてしまった。

しかし、中国とドイツの専門家チームが退色を防ぐ薬剤の開発に成功し、今回の像は鮮やかな色彩を保てるという。

米ナショナル ジオグラフィック誌では、出土した兵士像の姿勢、残存する塗料、銅製の武器など、

さまざまな手掛かりを基に、埋葬当時の兵馬俑(へいばよう)1号坑をCGで再現し、画像を公開している。

また今回の調査で、坑内に焼けた跡や木の灰が大量に見つかり、楚の項籍(項羽)が焼き打ちした跡ではないかとする見方を専門家は示している。

漢書には、項籍が始皇帝陵を破壊したとの記載がある。

秦に滅ぼされた楚の武将であった項籍は、始皇帝死後の秦末期に挙兵して秦を滅ぼし、首都の咸陽を破壊した。

兵馬俑坑は咸陽の郊外、今の西安市にある(西安は、項籍を倒した劉邦が開いた漢王朝の都、長安の現在の名である)。

陵墓の建設は、始皇帝が秦の王位に就いた紀元前246年に始まったとされ、

完成に30年を要し、動員された労働者は70万人と推定されている。

NATIONAL GEOGRPHIC。

 

 

出土したときはバラバラに割れた状態でしたが、破片と破片をひとつずつ繋ぎ合わせて、現在のかたちに復元!

出土したときはバラバラに割れた状態でしたが、破片と破片をひとつずつ繋ぎ合わせて、現在のかたちに復元!

 

[兵馬俑坑は咸陽の郊外、今の西安市にある]   

秦の国王・えい政は、今から約2200年前、中国大陸初の統一王朝を打ち立て、最初の皇帝という意味の「始皇帝」となりました。

始皇帝の波乱に満ちた生涯について歴史書『史記』などから知ることができるものの、記載のないことも多く、例えば皇后の名前すらわかっていません。

ところが1974年に始皇帝の陵墓から東へ約1.5km離れた場所から、巨大遺跡「兵馬俑坑」が発見されたことで、歴史の謎が少しずつ解き明かされようとしています。

この連載では全3回で、「始皇帝はなぜ8000体もの兵馬俑作らせたのか?」

の疑問に迫りながら、東京国立博物館で開催中の特別展「始皇帝と大兵馬俑」の

担当研究員・川村佳男さんが兵馬俑などの発掘から解明された始皇帝とその時代を解説します。

[始皇帝の軍団を丸ごとのコピー? 兵馬俑とはどういうもの?]   

兵馬俑とは兵士や軍馬を粘土で忠実にかたどり、固く焼きしめて作った像のこと。

今から約2200年前、中国で初めて天下を統一した秦の始皇帝が作らせたものです。

兵士の像高は冠や髷を含めて190センチほどあり、顔の作りは1体ずつ異なっています。

このことから、実在したある軍団の兵士ひとりひとりをモデルにしたとする説が有力視されています。

どの俑も頭髪や服のしわといった細部まで、極めて写実的に作りこまれています。

ある軍団を丸ごとやきものの像に写した兵馬俑のかたちには、階級の上下や、歩兵・騎兵といった役割の違いまで表わされています。

今回、私たちが上の写真のような再現展示を行ったのには理由があります。

それは兵馬俑が合計8000体とも推算される、比類のない規模の「群像」だからです。

遺跡の再現展示を通して、1体ずつそれぞれがもつ魅力とともに、

兵馬俑が本来備えている群像としての迫力も紹介する、これが本展覧会の最大のねらいなのです。   

[兵馬俑を詳しく見てみよう]   

「将軍俑」とよばれる像を見てみましょう。

冠をかぶり、リボン状の飾りをいくつもつけた鎧を着ています。

冠をかぶり、リボン状の飾りをいくつもつけた鎧を着ています。

実戦での機能性よりも装飾性を重視した身なりから、一般の兵士ではなく、軍団の指揮官を写したものと考えられています。

この種の鎧と冠を身に着けた俑は、今までに約10体しか出土していません。その希少性もまた、指揮官の像であることの証左であるといえます。

前方に組んだ筋骨たくましい腕とともに、静かにたたえたほほ笑みには自信と威厳が漂います。

百戦錬磨の武将にふさわしい精神性までが顔の表情から伝わってくるようです。

将軍俑と対照的に歩兵の俑は、装飾のない実用的な鎧を着用し、攻撃命令を待っているかのように緊張した面持ちのものが多数出土しています。

このように兵馬俑は、軍団内部の位置づけによって、身に着けた鎧や冠の形状だけでなく、顔の表情まで変えて作られました。    

[兵馬俑の復元はどう行われた?]  

現在展示している兵馬俑の姿は、すべて修復されたものです。

出土したときはバラバラに割れた状態でしたが、破片と破片をひとつずつ繋ぎ合わせて、現在のかたちに復元しています。

しかし、これがそのまま当初の姿であったわけではありません。

兵馬俑が発見されたのは1974年のことであり、始皇帝陵近くの地下に設けた兵馬俑坑に並べてから2000年以上ものあいだ、土中に埋もれていました。

そのあいだ、朽ちて残らなかったものも存在しました。

たとえば、木・革・布など有機質を材質にしたものは、基本的に土中で朽ちてしまい、せいぜいわずかに痕跡を留めるだけです。

「跪射俑」は弩弓をこのように構えていたと推定復元された(C)D_CODE

兵馬俑は実在した軍団のコピーですから、もともと役割に応じたさまざまな武器を手にしていました。

しかし、弓矢・槍の柄など武器の大部分は木製のため原形を留めていることはまずあり得ません。

土中でも腐朽することなく残っていた青銅製武器の一部、たとえば、矢の先端に装着するやじりなどによって、

私たちは兵馬俑が武器の実物を装備した状態で配列されていたことをうかがい知ることができるのです。

[兵馬俑の写実性は「芸術」の域を超えている]   

もうひとつ、兵馬俑で残りにくいものがあります。それは表面の彩色です。

もともと兵馬俑は皮膚・鎧・衣服など部位によってそれぞれ異なる色が塗られていました。

硬いやきものでできた兵馬俑は、土中で割れて破片になっても朽ちることはありません。

しかし、表面の彩色は長らく埋もれているあいだにほとんど失われてしまいます。

運よく彩色を留めて出土した例もわずかながら知られています。

こうした希少な兵馬俑や科学分析によって、将軍俑にも色の塗られていたことが分かりました。

将軍俑の鎧は、黄色などで派手に彩られ、細かな文様で縁取られていました。

ギリシャやローマの彫刻は、写実的に表現された人間の肉体に美を見いだして制作されました。

しかし、兵馬俑に表わされた写実性は武器の実物を持たせるなど、ギリシャ・ローマ彫刻のそれとは異質なものと考えられます。

芸術的表現としてではなく、写実そのものを目的としたとしか理解できないような造形であり、装飾であり、装備なのです。

(東京国立博物館学芸研究部 主任研究員 川村佳男)

東京国立博物館では特別展「始皇帝と大兵馬俑」が来年2月21日(日)まで開催中です。

会場では、選りすぐりの兵馬俑10体をじっくり四方から鑑賞できるだけでなく、

70体もの精巧なレプリカと高精細画像を使って兵馬俑を出土した巨大遺跡「兵馬俑坑」を再現展示しています。

再現された遺跡を背に兵馬俑が整然と並ぶ光景を目の当たりにすると、

まるで発掘現場に降り立ったかのような臨場感を味わえることでしょう。   

Yahoo!ニュース。

 

 

皇帝を永遠に守るために副葬された俑=人形!

皇帝を永遠に守るために副葬された俑=人形!漢の時代の皇帝とその皇后を葬った陵墓!!

 

今日のまとめ。

中国・西安市近郊の「兵馬俑=へいばよう」。死後の世界で皇帝を永遠に守るために副葬された俑=人形 のうち、兵士や馬を形取ったものだ。

漢の時代の皇帝とその皇后を葬った陵墓を発掘し、遺跡自体を整備した漢陽陵博物館で陵内部の見学が可能。

そこから出土した数千もの兵馬俑、侍女俑、動物の陶製埴輪=はにわ など、さまざまな埋葬品が納められていた場所を実際に見ることができる。 

兵馬俑の職人、ギリシャ人芸術家が訓練か?   

「広さは山手線の内側に匹敵、姿を見せ始めた巨大陵墓」! 

中国北部の土の中から謎のやきものの像が最初に発見されてから、今年で40年あまりになる。

考古学者たちは、これらの像が、中国最初の皇帝である秦の始皇帝(紀元前259年~紀元前210年)の

発掘調査からは歴史書を書き換えるような大発見もあったし、外国人の芸術家が中国人の職人を訓練したとする大胆な新説も生まれた。 

しかし、始皇帝の最も驚くべきプロジェクトが初めて明らかになったのは、1974年のことだった。

秦朝の首都だった咸陽(かんよう)の近くで井戸を掘っていた農夫たちが、土の中から奇妙な像をいくつも掘り出したのである。

その後の発掘調査により、これらは皇帝の陵墓を永遠に守護するために周囲に埋められた兵馬俑の一部であることが明らかになった。

俑とは、死者を守るために共に埋められる人形のことだ。

発掘された3つの巨大な坑には、数千体の兵馬俑が整列していた。

多くの王国に分かれていた中国を初めて統一し、氏族を基にした封建制に終止符を打った秦の始皇帝は、

中国史の中でひときわ大きく輝いている。彼が建設した万里の長城は、その強大な権力の象徴だ。

兵馬俑の復元はどう行われた?  

現在展示している兵馬俑の姿は、すべて修復されたものです。

出土したときはバラバラに割れた状態でしたが、

破片と破片をひとつずつ繋ぎ合わせて、現在のかたちに復元しています。 

 

出土したときはバラバラに割れた状態でしたが、それを復元!

しかし、これがそのまま当初の姿であったわけではありません。

兵馬俑が発見されたのは1974年のことであり、始皇帝陵近くの地下に設けた

兵馬俑坑に並べてから2000年以上ものあいだ、土中に埋もれていました。

兵馬俑の写実性は「芸術」の域を超えている]   

もうひとつ、兵馬俑で残りにくいものがあります。

それは表面の彩色です。もともと兵馬俑は皮膚・鎧・衣服など部位によってそれぞれ異なる色が塗られていました。

硬いやきものでできた兵馬俑は、土中で割れて破片になっても朽ちることはありません。

しかし、表面の彩色は長らく埋もれているあいだにほとんど失われてしまいます。

運よく彩色を留めて出土した例もわずかながら知られています。

こうした希少な兵馬俑や科学分析によって、将軍俑にも色の塗られていたことが分かりました。

将軍俑の鎧は、黄色などで派手に彩られ、細かな文様で縁取られていました。

今日は中国・西安市近郊の兵馬俑について記述してきました。

兵馬俑とは皇帝を永遠に守るために副葬された俑のうち、兵士や馬を形取ったもの。

秦の始皇帝の発掘調査からは歴史書を書き換えるような大発見や、外国人の芸術家が中国人の職人を訓練した大胆な新説も生まれた。

その後の発掘調査では兵馬俑の一部であることが明らかになった。

俑とは死者を守るために埋められた人形のことだ。

発掘された坑には、数千体の兵馬俑が整列していたと言うから驚きだ。

皇帝を永遠に守るために俑=人形を使ってまで、埋められていたのが驚きだ。

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私はかなり高齢な建築家です。出身は伊豆の湯ヶ島で多くの自然に触れて育ちました。少年時代の思い出も記事になっています。趣味が多くカテゴリーは多義に渡ります。今は鮎の友釣りにハマっています。自然が好きで自然の中に居るのが、見るのが好きです。ですので樹木は特に好きで、樹木の話が多く出てきます。 電子書籍作りも勉強して、何とか発売できるまでになりました。残り少ない人生をどう生きるかが、大事です。