渋沢栄一!ライフスタイルの革新者!「日本資本主義の父」と呼ばれ!渋沢の第3の顔とは!「近代日本経済の父」と呼ばれる!

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渋沢栄一!ライフスタイルの革新者!「日本資本主義の父」と呼ばれ!「近代日本経済の父」と呼ばれる!

渋沢栄一!ライフスタイルの革新者!「日本資本主義の父」と呼ばれ!渋沢の第3の顔とは!「近代日本経済の父」と呼ばれる!

 

帽子、リボン、革靴、牛乳、ビール、

庭付き一戸建て、ホテル、パティー――-。

近代に入り芽生え、今や当たり前になったこれらのモノや

生活スタイルには共通点がある。

1人の企業家が誕生に関わっていることだ。

その名は渋沢栄一。

「日本資本主義の父」と呼ばれ、

社会事業家としても知られる

渋沢の第3の顔とは――-。

 

 

旧三田網町邸・渋沢公園ない!

洋風衣食!日本向けにアレンジ!「洋装の重要なアイテムであるリボンが国産化されていく様子が見て取れる」!

 

今年3月、東京家政大学博物館・東京・板橋 の所蔵品に、近代服飾史の貴重な資料が加わった。

十数冊の見本帳に貼られたリボンだ。

分厚いものは1冊160ページあり、小さなサンプルは1ページに10点以上、大きなものだと同1点のリボンが丁寧に貼られている。

無地の簡単な図案のものから、写真と見違えそうな手の込んだ作品まで様々だ。

明治から昭和の前半のもので海外製と国産品が交じる。

「洋装の重要なアイテムであるリボンが国産化されていく様子が見て取れる」と同館の三友晶子学芸員は語る。

明治半ば、東京都台東区の谷中に「国産初のリボン工場」である岩橋リボン製織所が誕生した。

ここに出資し、組合員として事業を後押ししたのが渋沢栄一だった。

同社は買収などで何度か名前を変えながら1960年代までリボンを作り続けた。

一時はリボンでは東洋一の大工場だったそうだ。

2013年以降に建物が解体された際に長く眠っていた見本帳が発見され、

廃棄寸前のところを地元の市民団体が保管し、今春ようやく落ち着き先を得た。

ではなぜ、渋沢がリボンの製造を推進したのか。

正式な記録はないが「帽子作りに必要だったからではないか」と、保存に尽力した谷中のこ屋根会山崎範子さんは考える。

実は岩崎リボン設立の5年前、東京都文京区の小石川に、これも渋沢の手で「日本初の製帽会社」とされる日本製帽が誕生していた。

いったん解散するも1892年に東京製帽として再出発。

同社ブランドの「TOKIO HAT=東京ハット」は型や職人を含め、07年に

洋傘やスカーフなどを手がける老舗オーロラ東京・渋谷 が引き継いだ。

「日本は帽子大国なんです」。

山本勇樹・商品統括部マーケティング第1部MDはこう語る。

階級社会の欧州では帽子は限られた人のものだ。

だが日本では誰もが自由に楽しめる。その基盤を築いたのが東京帽子であり、渋沢だった。

好奇心旺盛な渋沢が西洋の服装に関心を持ったのは20代の頃。

徳川幕府の使節団の一員としてパリ万博に参加するため渡航したときだ。

万博会期中を含めて1年半ほど欧州で過ごし、滞在中に洋装一式を揃え、日本人男性にとって当時、大切だった髷=まげ も切った。

送られてきた洋装姿の渋沢の写真を見た妻は嘆いたと伝わる。

後年、渋沢は1年を通し「ボーラーハット」と呼ばれる黒い山高帽をかぶり、自ら生産にも乗り出した。

「西洋人と日本人では骨格が違う。

日本人の頭に合う帽子が必要だと考えたのでは」と山本さんは説く。

日本人の頭に合う帽子が必要だと考えたのでは」と山本さんは説く!

渋沢のDNAは今も息づく。

渋沢が設立に携わった王子製紙の社内ベンチャーとして誕生した王子ファイバー東京・中央 

とオーロラが協力し「紙の糸で織った帽子」を新商品として今年発売した。

麻の一種から作った紙を細く切り、撚る=よる ことで糸になる。軽くて丈夫で風通しもいい。

この紙の糸を用いた素材で帽子を作ったのだ。

紙の原料となる植物は地球環境にあまり負荷をかけずに育てる。

「渋沢の教えに沿った経済と倫理の両立を目指す新素材だ」と王子ファイバーの白石弘之社長。

渋沢の哲学は今も新事業を生む。

渋沢が日本に持ち込んだ西洋の生活文化は衣服だけにとどまらない。

20代の渋沢が、パリへの船旅で初めて本格的に触れたのが洋食だ。

本人の詳細な日記によれば、肉やバターをおいしいと食べ、コーヒーについて「すこぶる胸中を爽やかにする」と記す。

晩年になっても、朝食はオートミルなど洋食だったという。

こうした食の分野でも帰国後、やはり「西洋のスタイルの国産化」に挑んだ。

「渋沢栄一の作った牛乳」。

渋沢の故郷である埼玉県深谷市で、そんな案内を掲げる店を見つけた。

並ぶのは、市内の松村乳業が販売する牛乳だ。

1880年、箱根の仙石原に渋沢らの出資で耕牧舎という牧場が開設された。

毛布原料を狙い羊を飼うが行き詰まり、牛に転向。バターなどが箱根の外国人観光客らにも喜ばれたという。

東京にも生産・販売拠点を設け、作家、芥川龍之介の父親も働いた。

乳製品では大手となったものの、箱根の責任者が病死し事業は解体された。

都内での事業を継いだ幹部の一人が深谷出身で、その2代目が深谷にも牧場を開いた。

6代目の村松勝社長は「渋沢栄一関連の会社ということで、問い合わせも増えている」という。

金融機関など基幹産業と異なり、生活・消費関連では渋沢が携わった会社や事業が存続している例は少ない。

しかし今も残るビジネスの中に、「渋沢の影」を見つけたい人が増えているようだ。

 

 

見本帳などの大量な資料!


住まいや暮らし!清貧より彩り!夢は東京都大田区の田園調布として結実する!その源流は凱旋門の立つ仏パリの広場にあると、開発の実務を担当した渋沢の子孫は著書で明かす!

 

渋沢栄一が晩年に提唱して始動したのが郊外での住宅開発だ。

人間が密集する都心部を離れ、自然に囲まれた場所で生活する――。

夢は東京都大田区の田園調布として結実する。

今では富裕層の街というイメージだが、当初は中流層向けの街づくりだった。

大都市近郊に誕生した住宅地は少なくない。

なぜ田園調布がその代表格とされるのか。

建築史家の藤森輝信氏は「田園調布誕生記」山口宏編、鹿島出版会「郊外住宅地の系譜」に

所収 という論文で「ひとえに渋沢栄一の理想主義のせい」だと結論づけている。

例えば、街の快適さを左右する道路や広場など公共空間の面積が、田園調布は全体の18%を占める。

当時は都心でも10%前後だったから、かなり広い。

しかも道は駅を中心に放射線と同心円を形作る。

区画は変則的になり、販売はしにくいが、街全体としては美しい。

「現在に置いてすら、この街の航空写真を見る人に衝撃を与えずにおかない」と藤森氏。

その源流は凱旋門の立つ仏パリの広場にあると、開発の実務を担当した渋沢の子孫は著書で明かす。

そこで暮らし働く人にとって街や都市には何が必要か。

渋沢を経由し、パリから日本に持ち込まれたものは数多い。

当時の日本では、武士とそれ以外の人々の間に歴然とした身分格差があり、同席する機会は乏しかった。

ところがパリではパーティーの席で軍人と実業家が自由に出会い、政治やビジネスを対等に語っていた。

東京にも「社交の場」が必要だ――。

渋沢はこんな考えから「東京会館設立計画」を後押しする。

アイデアは別の企業からに引き継がれ「世界に誇る施設ながら、誰でも気軽に利用できる人々の集う社交場」

として、1922年に開業したのが東京会館=東京・千代田 だ。

渋沢の開館時に祝辞を述べた。

2019年に建て替えた現在の施設は3代目だが、初代のロビーに飾られた大時計は今もなお現役。

現在は1階のメインバーで時を刻む。

「パーティーの後などに経営者の方々がいらっしゃって親交を深めています」と

チーフバーテンダーの高山英治さん。ホテルより気楽で、街中の飲食店より落ち着いているのが特徴だという。

東京会館に近い帝国劇場や帝国ホテルの設立に渋沢が関わった。

かつて東京会館と隣接し、建て替えに同ビルに入居した東京商工会議所の初代会頭も渋沢だ。

今は三菱、三井、阪急などの企業グループが再開発を通じ勢力を競い合う日々や界隈はもともと「渋沢村」だったわけだ。

一方で庶民の街、浅草など戦場など非日常的な空間を立体模型と絵画を通じて

体験するテーマパーク「パノラマ会館」を建設するなど、娯楽への視野も広い。

「人間生活において衣食住の三者は、必須欠くべからざる重要問題」。

渋沢は著書「青淵百話」にそう記した。

同時に「衣食住は節約するものをもってのみ尊しとするとはいいきれぬこと」とも語った。

慈善や社会活動に熱心に取り組んだが、決して清貧礼散ではない。

皆が分に応じて衣食住遊を楽しむべきだという姿勢だったからこそ、豊かになり、

欧米化してゆく近代日本の消費生活を先導できたわけだ。

とはいえ、度を超えた富の集中や、華美で派手な消費は嫌った。

余力は恵まれない人たちへの寄付に回そう事業家らに呼びかけ、自らも実践している。

「自分は無趣味」と語る。

東京都世田谷から埼玉県深谷市に移築された「誠之堂」というレンガ造りの建物がある。

世田谷から埼玉県深谷市に移築された「誠之堂」というレンガ造りの建物がある!

銀行の運動施設内に、渋沢の喜寿を祝って行員らの寄付で建てられた。

自らの権威を示す機会だが「英国の田舎の家のような質素なものに」と要望したそうだ。

食事も簡素でグルメ趣味ではない。

里帰りの時には素朴な郷土料理の煮ぼうとうや野菜の煮物を好んで食べたと伝わる。

近代の日本の実業家には、内外の美術品を買い集めたり、複数の大邸宅を構えたりした例も多い。

渋沢の場合、経営者として財閥をつくらなかったように、私人としてもコレクションなどは残さなかった。

企業や事業も消えたものが多い。

しかし、蒔いた種は担い手や所有者、名称などを変えながら根付き、私たちの暮らしの中に生きている。    

石鍋仁美 竹邨撮影。日経新聞。

 

それでは渋沢栄一の凄いところを研究します!

 

 

2021年の大河ドラマ「晴天を衝け」!


渋沢栄一はどんな人で何がすごいのか?!フランス渡航で渋沢栄一は、日本にはない欧米流の資本主義や経済学、金融の発展に圧倒されることになります!!

 

[【青天を衝け】渋沢栄一はどんな人で何がすごいのか?]    

新一万円札の肖像画に渋沢栄一が選ばれましたが、福沢諭吉や聖徳太子のように

【アー!あの人ね】とならなかったのは、私だけではないはずです。

ただ言えることは、何をしたかは分からないけど偉人なんだなと言う事だけです。

そこで今日は、渋沢栄一についてまとめてみましたので、いったい何をした人なのかを押さえて見てはいかがでしょうか?

Contents [hide]     

渋沢栄一の誕生    

尊王攘夷に目覚めるが挫折     

パリ万博へ随行    

帰国後は大蔵官僚へ…    

資本主義の父への道のり    

教育界の業績   

渋沢栄一が紙幣になるのは2回目!?    

渋沢栄一はいったい何をした人?まとめ   

渋沢栄一の何がすごい?   

渋沢栄一の名言集

[渋沢栄一の誕生]    

以外にも、明治ではなく江戸末期の天保11年(1840)2月13日に深谷ネギで有名な現在の

埼玉県深谷市(当時は武蔵国)に藍の製造販売と農家を手掛ける家に生まれました。

普通の農家とは違い、原料の買い付けや販売を担っていたので、常に算盤をはじく商才が必要な仕事でした。

幼少の時から、父に本を与えられ栄一は勉学に励みました。

主に論語を読みふけっていたそうです。そんな栄一が13歳の時、単身で藍の仕入れを

任されるようになり、商売人の血なのか父譲りの商才を発揮し周囲を驚かせることになります。

この藍の仕入れの経験から以後の現実的な合理主義思想に繋がったと言われています。

[尊王攘夷に目覚めるが挫折]    

時は幕末、尊王攘夷の思想が高まる中、栄一は北辰一刀流の道場に通う中で勤皇志士と交流をするようになります。

その影響から、尊王攘夷の思想に目覚め長州と連携して倒幕の計画を立てますが、尾高長七郎の

説得により自分がやろうとすることは自殺行為で一人の力ではどうにもならないと言う事が分かりました。

その点では、意地になって他人の説得には応じず、尊王攘夷の思想の狂気に駆り立て殉死する志士たちと違い、栄一は現実的思考を持っていたのです。

幼少期に商いで培った合理的な思想によって、現実に対するバランス感覚が抜群だったと言う事でしょう。

[パリ万博へ随行]    

その後、渋沢栄一に大きな転機が訪れます。当初より交流があった一橋慶喜が将軍となった事により、

栄一が幕臣となりパリ万博の随員としてフランスへ渡ることになりました。

このフランス行きは渋沢栄一にとっては大変リスクが大きいもので、渡航中に幕府が倒れてしまったら、

幕臣である栄一の居場所がなくなり、倒幕に貢献した者が支配する世の中になっている恐れがありました。

でも栄一はリスクを冒してでもフランスへ渡ることを選択しました。

徳川昭武の御勘定格陸軍付調役の肩書を得てパリ万博を視察し、

ヨーロッパ各国を訪問し先進的な産業や軍備を目の当たりにします。

この時に、通訳としてシーボルトの長男・アレクサンダーが同行し、

その後も交友が続き日本赤十字社設立に携わるなどしています。

このフランス渡航で渋沢栄一は、日本にはない欧米流の

資本主義や経済学、金融の発展に圧倒されることになります。

新しい日本のためにも、栄一が欧米式の経済を持ち帰り国内を体制ごと変える必要があると考えました。

[帰国後は大蔵官僚へ…]    

帰国した栄一を待ち受けていたのは、崩壊した江戸幕府でした。

将軍慶喜と幕臣らは静岡の地で謹慎し栄一も随行し、

【静岡商法会所】の大改革をし、静岡の商業を立て直しました。

この手腕に目を付けたのが、人材不足の明治政府でした。

当の栄一は、新政府に力を貸す気がサラサラありませんでしたが、

大隈重信に説得され大蔵省に入省することになりました。

こうして栄一は大蔵官僚として、民部省改正掛を率いて改革案の

企画立案や度量衡の制定や国立銀行条例制定に携わりました。

1872年には、現在の財務省印刷局の前身である紙幣寮の長に就任しますが、

予算編成をめぐり大久保利通や大隈重信と対立し、1873年に退官しました。

退官後は、官僚時代に設立させた第一国立銀行(現みずほ銀行)の

頭取に就任し、経済界に身を置くことになりました。

銀行設立の経験を買われ七十七国立銀行などの設立にも携わりました。

 

 

内装を彩るステンドグラスは東洋的な意匠が描かれている!埼玉県深谷市!


資本主義の父への道のり! 現在に名を轟かせている数多くの企業の元を作り上げたのが渋沢栄一です。彼が居なければ、日本の経済発展は数十年遅れていいたとも言われています!!

 

[資本主義の父への道のり]    

次に取り組んだのが製紙業で【抄紙製紙(現・王子製紙)】の創設に関わりますが、なかなか軌道に乗らず苦労続きでした。

しかし、西南戦争による新聞ブームによりパルプの躍進に一役買いました。

【大阪紡績(現・東洋紡)】にも携わり、洋服の服飾文化の変貌だけでは赤字が埋められず、皮肉にも軍服需要の増加が紡績の躍進に繋がりました。

その他にも、栄一が関与した企業は、500以上で…

 東京ガス   

東京海上火災保険(現・東京海上日動火災保険)   

田園都市(現・東急)   

秩父セメント(現・太平洋セメント)   

帝国ホテル   

秩父鉄道   

京阪電気鉄道   

東京証券取引所   

麒麟麦酒(現・キリンホールディングス)   

サッポロビール(現・サッポロホールディングス)   

大日本製糖   

明治製糖   

澁澤倉庫

上記には上げ切れな程会社設立に携わり、昭和初期頃には渋沢栄一を慕う

経営者たちが集まる龍門社が立ち上げられ、その会員数は数千人にもなりました。

明治23年には、政界へ進出し貴族院議員として活動し、明治25年には

民間人としては初の勲四等瑞宝章を叙勲しました。

晩年は、経済活動のほかに、教育や医療・福祉の充実、国際交流の発展に尽力しました。

関東大震災の時には、83歳の高齢にもかかわらず、被災者支援に奔走したそうです。

[教育界の業績]    

栄一は教育にも力を入れており、商法講習所【一橋大学】、

大倉商業学校【東京経済大学】の設立に尽力した他、二松學舍大学の学長にも就任しています。

また、女子の教育の必要性を考えて、伊藤博文らと共に、日本女子大学校・東京女学館の設立に携わりました。

[渋沢栄一が紙幣になるのは2回目!?]    

来る2024年の新紙幣発行の際に、新一万円札の肖像に【渋沢栄一】に決まりました。

ここまで読んだ人なら、納得の人選となる渋沢栄一ですが、1963年の千円札の肖像候補にも上がっていたそうです。

この時は、偽造防止のために髭のある人物と言う事で【伊藤博文】に決まりました。

ところが、大日本帝国と呼ばれていた時代に、大韓帝国を併合する前の朝鮮半島において、日本政府の監督下、

事実上の中央銀行にあたる朝鮮銀行から、1902年、渋沢栄一が描かれた紙幣が発行されてました。

[渋沢栄一はいったい何をした人?まとめ]    

現在に名を轟かせている数多くの企業の元を作り上げたのが渋沢栄一です。

彼が居なければ、日本の経済発展は数十年遅れていいたとも言われています。

しかも、実業家の側面だけではなく、様々な社会活動にも関り支援してきました。

ここまですごい人がどうして大々的にピックアップされてこなかったのかが不思議です

[渋沢栄一の何がすごい?]   

倒幕活動から一転、徳川慶喜下で幕臣となりその後明治政府に仕えた    

明治政府を辞めると、600業種・500の会社を設立に尽力した    

私利と公益のバランスが大切だと【道徳経済合一説】を説く    

日米の平和にも尽力しノーベル平和賞の候補にも…

[渋沢栄一の名言集]

「経営の神様」6つの功績!

貯蓄とは将来を楽しむため現在の享楽を犠牲にするものだ    

渋沢が若い頃大きな借金をしていたようで、その大きな借金を倹約をして完済したそうです。

その教訓から、貯蓄の必要性を説いたのかもしれません。  

倹約すればよいとはかぎらない

上記の事と矛盾していますが、人は出費が減ると少ない収入でよいと考えるようになり、向上心が無くなるようです。

それを国に例えると。国税が減り国家が貧しくなるとの事。

そのため、倹約はしつつも身の丈に合ったお金の使い方をするが良いそうです。

社会のために尽くす者に対しては天もまた恵みをあたえる   

自分の利益だけを追っていくと人に恨まれるだけです。

同じ設けるなら社会のために働いて設ける事を心がけましょう。

戦後の昭和、平成生まれの私たちは、生まれながらにして経済的インフラが整った状態で

生活をしているので今の状況に違和感を感じませんが、

その当たり前の状況の基礎を明治の頃に作り上げたのが渋沢栄一です。 

もっとわかりやすく言うと、孫正義・スティ-ブ・ジョブズ、マークザッカーバーグなどの

インターネット上のプラットホームを構築していった人をすべて足したレベル

考えると澁澤栄一がとてもすごい人だと言う事が想像できるでしょう。 

これだけを押さえておけば、2021年2月14日からのNHK大河ドラマ【青天を衝け】が面白くなってくるはずです。    

ABOUT ME   歴ブロ    

歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから始めました。

文章メインのmiumagaとイラストメインの歴ぶろで運営しています。

史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。

いつか歴史能力検定を受けたい。どうぞよろしくお願いします。    

ABOUT より。

 

 

今だからこそ渋沢栄一の考え方!


「近代日本経済の父」と呼ばれる渋沢栄一!ヨーロッパの社会経済制度を見聞し、日本の近代化の必要性を痛感しました!!

 

[渋沢栄一とは?]    

渋沢栄一(1840~1931年)とは?  

(深谷市所蔵)   

「近代日本経済の父」と呼ばれる渋沢栄一は天保11(1840)年、

武蔵国榛沢郡血洗島(ちあらいじま)村(現在の埼玉県深谷市)に生まれました。

生家は農家で、麦作のほか養蚕や藍玉の製造販売を手掛けていました。 

栄一は幼い頃から家業に励んだほか、従兄の尾高惇忠に『論語』をはじめとする漢籍を学びました

尾高から尊王攘夷思想の影響を受けた栄一は、同志とともに高崎城襲撃、

横浜外国人居留地焼き打ちを計画しましたが、直前に中止します。 

元治元(1864)年、栄一は一橋家に仕えることになり、当主・慶喜が将軍となったため幕臣になります。

慶応3(1867)年、パリ万国博覧会の幕府使節随員となり、徳川昭武(あきたけ)に従って渡欧。

ヨーロッパの社会経済制度を見聞し、日本の近代化の必要性を痛感しました。  

維新後帰国し、明治新政府に出仕した後、実業家として幅広く活躍します。

日本初となる銀行、鉄道やガスといった様々な会社を設立・育成し、その数は生涯で約500と言われています。

また、学校や病院といった約600の社会事業に携わりました。 

明治42(1909)年、69歳になった栄一は実業の第一線から退き、大正5(1916)年には完全に引退します。

以後の栄一は各種社会事業や民間外交にひときわ注力しました。

大正15(1923)年から数年にわたり、毎年第一次世界大戦の終結日である11月11日にラジオ放送で平和を訴える演説を行いました。

また、日本国際児童親善会を設立し、アメリカとの「友情の人形」の交換を主導しました。

これらの国際平和への貢献が評価され、栄一は2度にわたってノーベル平和賞の候補になっています。

昭和6(1931)年11月11日、栄一は東京・飛鳥山の自邸で91歳の生涯を閉じました。    

[渋沢栄一の生涯] 1840(天保11年)

0歳  武蔵の国榛沢郡血洗島村(はんざわぐんちあらいじまむら)に生まれる。1858(安政5年)

18歳   尾高惇忠(じゅんちゅう)の妹、千代と結婚

1863(文久3年)  23歳  高崎城乗っ取り等の計画をするが、中止。

1864(元治元年)  24歳  従兄の渋沢喜作(きさく)と共に一橋家に仕官する。

1866(慶応2年)26歳   徳川慶喜が第15代将軍となり、栄一は幕臣に。

1867(慶応3年)  27歳  パリ万国博覧会の幕府使節随員となり、ヨーロッパへ渡る。

1868(明治元年)28歳  フランスより帰国。

1869(明治2年)29歳  明治新政府に仕官する。

1873(明治6年)33歳  大蔵省を辞任し、第一国立銀行総監役となる。抄紙会社を創立する。

1878(明治11年)38歳  東京商法会議所を創立し、会頭に就任。

1879(明治12年)39歳   王子の飛鳥山に別荘を設ける。前米国大統領グラント将軍歓迎会を開く。東京養育院の院長に就任。

1882(明治15年)42歳  妻・千代死去。(翌年に伊藤兼子と再婚)。

1887(明治20年)47歳   帝国ホテル創立にあたり、発起人総代となる。

1902(明治35年)62歳欧米視察。ルーズベルト米国大統領と会見。

1909(明治42年)69歳   これまで関係した諸会社・団体など大半の役職を辞する。

渡米実業団の団長として、米国約60都市を訪問。

1915(大正4年)75歳   日米親善のため渡米。ウィルソン米国大統領と会見。

1916(大正5年)76歳   実業界を引退する。

1921(大正10年)81歳   排日問題改善のため渡米。ハーディング米国大統領と会見。

1923(大正12年)83歳   関東大震災が起こる。震災後、大震災善後会の副会長となる。

1926(大正15年)86歳   この年から昭和5年まで、第一次世界大戦終結日である11月11日に、毎年ラジオ放送で平和を訴える演説を行う。

日本の民間経済外交の組織化と、生涯を通じて国際交流に力を入れた功績を評価され、ノーベル平和賞候補となる。

1927(昭和2年)87歳   日米国際児童親善会会長として日米の人形の交換につとめる。  二度目のノーベル平和賞候補となる。

1931(昭和6年)91歳   11月11日飛鳥山自邸にて死去。   

NHK より。

 

 

渋沢栄一の教え「誠実に努力する人に運命は開ける」!


渋沢がいなければ、近代日本は実現しなかった!渋沢が今日の日本に残した財産の大きさに改めて敬意を評します!!

 

今日のまとめ。 

帽子、リボン、革靴、牛乳、ビール、庭付き一戸建て、ホテル、パティー――-。

近代に入り芽生え、今や当たり前になったこれらのモノや生活スタイルには共通点がある。

1人の企業家が誕生に関わっていることだ。その名は渋沢栄一。

「日本資本主義の父」と呼ばれ、社会事業家としても知られる 渋沢の第3の顔とは――-。 

洋風衣食!日本向けにアレンジ!

「洋装の重要なアイテムであるリボンが国産化されていく様子が見て取れる」! 

住まいや暮らし!

清貧より彩り!

夢は東京都大田区の田園調布として結実する!

その源流は凱旋門の立つ仏パリの広場にあると、開発の実務を担当した渋沢の子孫は著書で明かす! 

渋沢栄一はどんな人で何がすごいのか?!

フランス渡航で渋沢栄一は、日本にはない欧米流の資本主義や経済学、金融の発展に圧倒されることになります! 

北区を愛し!住居を構え!日本を導いた!

資本主義の父への道のり! 

現在に名を轟かせている数多くの企業の元を作り上げたのが渋沢栄一です。

彼が居なければ、日本の経済発展は数十年遅れていいたとも言われています!  

「近代日本経済の父」と呼ばれる渋沢栄一!

ヨーロッパの社会経済制度を見聞し、日本の近代化の必要性を痛感しました! 

今日は渋沢栄一について記述してきました! 

渋沢がいなければ、近代日本は実現しなかった! 

洋風衣食! 

住まいや暮らし!

清貧より彩り! 

その源流は凱旋門のあるフランスパリの広場にあるという! 

フランス渡航で欧米流の資本主義、経済学、金融の発展にどれだけ寄与したことか! 

彼がいなければ日本の経済発展は数十年遅れていたとも言われています! 

渋沢が今日の日本に残した財産の大きさに改めて敬意を評します!!

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私はかなり高齢な建築家です。出身は伊豆の湯ヶ島で多くの自然に触れて育ちました。少年時代の思い出も記事になっています。趣味が多くカテゴリーは多義に渡ります。今は鮎の友釣りにハマっています。自然が好きで自然の中に居るのが、見るのが好きです。ですので樹木は特に好きで、樹木の話が多く出てきます。 電子書籍作りも勉強して、何とか発売できるまでになりました。残り少ない人生をどう生きるかが、大事です。