涼を呼ぶ・江戸のガラス!魔除けの道具がルーツの風鈴!江戸時代からの伝統の技!!

Pocket

これが江戸切子の水差しで、実に美しいデザイン!


涼を呼ぶ・江戸のガラス!魔除けの道具がルーツの風鈴!江戸時代からの伝統の技!!

 

そよ風に響く風鈴や、繊細なカットが光り輝く切子。

涼を誘うガラスには軒先に卓上にと日本の夏を彩ってきた。

「魔除けの道具」がルーツの風鈴は、今、ささやかな疫病退散の願いを込めて注目を集める。

江戸時代から連なる伝統の技は、歴史の荒波を越えて受け継がれ、江戸の意匠として息づいている。

 

 

魔除けから夏の風物詩のガラス風鈴!

魔除けから夏の風物詩のガラス風鈴!江戸風鈴の絵柄はかつて、全体を赤く塗った「魔除けの色」が最も好まれた!

 

夏の風物詩でもあるガラス風鈴だが、その歴史が江戸時代に始まることをご存知だろうか。

「江戸時代のガラスは割れそうなくらい薄くて派手な装飾のない素朴な美しさが特徴。

その時代の作り方が残っているのが『江戸風鈴』です」。

日本有数のガラスコレクションを誇るサントリー美術館=東京・港 の

学芸員、林佳美さん32 の言葉に誘われ、東京・江戸川の篠原風鈴本舗を訪れた。

戦前に東京で10軒近くあった風鈴屋は、暖簾分けをした先を含め2軒が残るのみ。

篠原風鈴は江戸時代に始まった吹きガラスの製法を受け継ぐ一方、絵付けや組み立て、

販売だった工程を一貫作業に変え、風鈴を工芸品に高めてきた。

1965年ごろ2代目の篠原儀治さん95 が「江戸風鈴」と名付け、風情を大切に伝えている。

3代目の妻で代表の篠原恵美さん65 に工場を案内してもらうと、内部を1300度に熱した炉の前に

熟練の男性職人2人が立ち、汗を滲ませながらテンポよくガラスの球を生み出していた。

炉に埋め込まれた坩堝=るつぼ には、ドロドロに溶けたオレンジ色のガラスがのぞく。

それを細長いガラス管の先に巻き取り、型を使わず、空中で息を吹き込み膨らませる「宙吹き」という製法だ。

1つにつき1~2分の流れるような動作を見つめながら、江戸時代の浮世絵に描かれた職人の姿を思い浮かべた。

「100年、200年の昔を感じながら、ガラスならではの涼やかさや柔らかい音を楽しんでもらえたら」と恵美さん。

絵付けされ完成した風鈴を手に取ると、素朴で愛らしい丸みは、ひとつひとつが少しづつ異なる。

「江戸っ子の潔さ=いさぎよさ」を表すような。

余韻の少なく軽やかな音色にも同じものはない。

鳴り口をわざわざギザギザに仕上げる昔ながらの工夫が施され、風に揺らすと複雑な音の響きも耳に心地よかった。

風鈴はどのようにして生まれたのだろう。

風鈴のルーツは「魔除けの道具」だとか!日本の夏には欠かせない風物詩!

日本の音楽や楽器に詳しい上越教育大学名誉教授の茂手木淑子さん70 に尋ねると

ルーツは『魔除けの道具』なんです」という答えが返ってきた。

その道具とは古代インドの寺院にあった金属製の「風鐸=ふうたく」 のことだ。

屋根の四隅に掲げられ、風を受けてなる音が魔を祓うと言われている。

木の枝に吊りさげて音のなりかたで吉兆を占う中国の「占風鐸」が起源という説もあるが、

いずれにせよ日本には仏教の伝来とともに風鐸として伝わったとされる。

古くは世界最古の木造建築群である世界遺産・法隆寺奈良、607年ごろ創建 の金堂や五重の塔にもある。

風鈴の歴史は平安から鎌倉時代からの僧侶、法然上人が関わっているという。

茂木さんによると「風鈴」という言葉が初めて認識されたのは、浄土宗の宗祖である法然の足跡をつづった「円光大師伝」

昔は「フレイ」や「フウリャウ」などと読まれ、法然が名付け親と解釈されることもあったようだ。

同書によると、風鈴を好んで持ち歩いたとされるのは封禅の弟子、空阿弥陀仏。

浄土宗の担当者は「信仰する人は増えた鎌倉時代に、

極楽浄土に近い音として仏教を広めるために用いられたのではないか」と推察する。

フウリュウの戸を法然や信者も耳にしたのだろうか。

寺院の風鐸と同じように、風鈴も初めは主に金属製だった。

平安・鎌倉時代には疫病神を防ぐため、貴族が縁側に下げたという。ガラス製が登場したのは江戸時代のことだ。

明治時代にはガラス風鈴を担いだ「風鈴売り」が市中を歩き、庶民にまで広がって夏の風物詩となっていった。

茂木さんは「ガラスの涼しげな透明感に加え、吹き抜ける風の音を象徴的に捉えた自然に近い音が、

日本人の感性に響いたのではないでしょうか」と語る。

最近は各地で風鈴祭りが開かれ、涼感や写真映えが人気だ。

昨夏に2千個以上の江戸風鈴が揺らめいだ川越氷川神社・埼玉 を始め、

この夏は新型コルなウイルスの影響で変更や中止を余儀なくされるところも多い。

祭りのにぎわいを楽しめる日を願いつつ、自宅の軒先や窓辺で楽しむこととしよう。

江戸風鈴の絵柄はかつて、全体を赤く塗った「魔除けの色」が最も好まれた。

近年は金魚や花火、縁起物の宝船や松に加え、精緻な都会の風景や螺鈿=らでん を張ったモダンなデザインも生まれた。

時代は巡り、コロナ禍の今年は新たな魔除けの象徴である

疫病退散の妖怪「アマビエ」が人気を博している。

 

 

コース料理の最後を飾る色鮮やかなソルベのデザート!

江戸・東京が育む伝統の技!コース料理の最後を飾る色鮮やかなソルベのデザート!

 

菊や格子模様の和柄や繊細なカットが目を楽しませる江戸切子。

幕末に色ガラスをかぶせる技術が発達した薩摩切子に対し、江戸っ子の粋の表れからか「無色透明」が好まれたそうだ。

その地で100年近く続く手仕事であることが求められる国の「伝統工芸品」で、ガラス製品は2つしかない。

その一つが江戸切子だ。

東京は、江戸時代のガラス作りを今に伝える貴重な地でもある。

ただサントリー美術館の林さんいわく「ガラス作りのトップランナーは長崎だった。

長いスパンで考えると東京の歴史は極めて新しい」。

なぜ東京で伝統が培われたのか。

日本のガラス史は弥生時代に遡り、吉野ケ里遺跡・佐賀 など各地でガラス玉が出土している。 

7~8世紀には奈良の遺跡で国産のガラス玉作りの痕跡も見つかったが、

本格的なガラス作りは、16世紀に南蛮船が渡来して以降のこと。

長崎から大阪や京都を経て江戸に伝わるも、

品質面では「長崎のものには及ばない」との記述も文書に残されている。

切子は厚手のガラスが生まれた19世紀に入ってからのようだ。

転機は、殖産興業を歌った明治時代だ。

1876年・明治9年 東京・品川に官営ガラス工場「品川硝子製造所」が設立され、

英国人技師を招いて西洋の近代技術を導入した。

「宙吹き」による薄いガラス、時間のかかる手彫りの切子を大きく向上させ

「技術面で現代の江戸切子の直接的なルーツになった」林さん。

かつて「瑠璃=るり」や「玻璃=はり」と呼ばれ、枕草子に「うつくしきもの」と記されたガラス。

江戸時代に「硝子」と書いてポルトガル語の「びいどろ」と呼ばれたこともあったが、

品川硝子の設立後は英語の「ガラス」と呼ばれるようになる。

品川硝子は赤字が膨らみ10年足らずで民間に払い下げられたが、伝習生たちは東京の下町などに独立して残った。

鹿児島の薩摩切子が幕末の動乱を経て途絶え、長崎や大阪のガラス作りが安価な輸入品などと競って

衰退する一方、日用品やぜいたくひんの一大消費地だった東京では伝統をつなぐことができた。

震災や戦火など「近代から近代以降の荒波を、庶民にも育まれながらどうにかのりこえた数少ない例」林さん となった。

バブル崩壊後に江戸切子から大手が次々撤退したが、下請けを脱したことをきっかけに、

切子職人たちは個性を競い会デザイン性の高い作品を生み出してきたという。

江戸切子協同組合東京・江東 の清水祐一郎さん40 は「若手も加わり、

量産品ではないクラフトとして、表現に力を入れた作品に幅が広がっている」と話す。

ミシュラン三つ星の「日本領地 龍吟」東京・千代田 を訪ねると、

コース料理の最後を飾る色鮮やかなソルベのデザートが、江戸切子の透明なお碗盛られていた。

ソルベのデザート!実に美しいデザインに感心します!

口にすると柑橘類の爽やかな味わいが広がり、照明にきらめく器のカット文様が目にも美しい。

美食家で知られる北大路魯山人は若かりしころ、赤い切り子の器で安い豆腐を贅沢に演出した

エピソードが残るが、ここちらはまさに美の競演といったところか。

日本料理は五感に訴えることもご馳走のうちである――-。

代表の山本征治さん50 は「すべての感覚に訴えかける満足感は、料理だけでは表現できない。

そこを手助けしてくれるのが伝統工芸だ」と語る。

独特な曲線のフォルムに江戸切子の詳細なカットが施された金赤色のウオーターボトルは1点ものの特注品。

卓上でアート作品のように存在感を示していた。

制作者の堀口徹さん44 は12年前に実家から独立、堀口切子東京・江戸川 を創業した。

「ガラスを加工し、使い手を驚かせて魅了するという江戸切子の本質は変わらない」。

伝統の上に立ちながら、現代的な食器や照明、アクセサリーなどに新境地を開いている。

工場には、クラシックなイメージを覆すグラスや酒器が並んでいた。

伝統と未来を象徴する東京スカイツリー東京・墨田 では、

夏をテーマとしたエレベーターに乗ると、大輪の打ち上げ花火のような光の演出が迎えてくれた。

幻想的な空間を生み出すのは、3方向に散りばめられた376個のカラフルな江戸切子だ。

「光と相性が良く、光を消しても華やかで目を引く江戸切子は設計者からも好まれます」

と伝統技術ディレクターの立川裕太さん54。

今年の隅田川の花火大会は中止となった。

だが、そんな今こそ伝統がもたらしてくれる光が生活の彩りとなってくれるのではないだろうか。    

日経新聞 小沢一郎  井上昭義撮影。

 

 

薩摩切子が厚い色ガラスを重ねた色被せ!

江戸時代末期・江戸時代末期!薩摩切子が厚い色ガラスを重ねた色被せ!!

 

江戸切子(えどきりこ)とは江戸時代末期から江戸、東京都において生産されている江戸時代末期で、

東京都指定伝統工芸品および経済産業大臣指定伝統的工芸品である。

[江戸切子の特徴]   江戸末期に生産された江戸切子は透明な鉛ガラス(透きガラス)に

鑢や金棒と金剛砂によって切子細工をし、木の棒等を用いて磨き行った手作業による

手摺り工程による細工によって制作されたものと考えられている。

当時の薩摩切子が厚い色ガラスを重ねた色被せ(いろきせ)ガラス(en)も用いていたこと、

ホイールを用いた深いカットと大胆な形であることとは大きな違いがある。

明治期以後は薩摩切子の消滅による職人と技法の移転や海外からの技術導入により、

江戸においても色被せガラスの技法・素材も用いられるようになる。

色ガラスの層は薄く鮮やかなのが特徴。加工方法も、文様を受け継ぎつつ手摺りからホイールを用いたものへ移行していく。

江戸切子の文様としては、矢来・菊・麻の葉模様など着物にも見られる身近な和の文様を繊細に切子をしているのも特徴である。

江戸切子の文様としては、矢来・菊・麻の葉模様など着物にも見られる身近な和の文様!

現在は、当初からの素材であるクリスタルガラス等の透きガラスよりも色被せガラスを素材に用いたものが

切子らしいイメージとして捉えられており、多く生産されている。

[歴史]   

1834年(天保5年)に江戸大伝馬町のビードロ屋、加賀屋久兵衛(通称:加賀久)が

金剛砂を用いてガラスの表面に彫刻で模様を施したのが始まりと言われる。

加賀久は日本橋通油町の硝子・眼鏡問屋・加賀屋(通称:加賀吉)から暖簾分けし、切子も始めたとされる。

1873年(明治6年)、明治政府の殖産興業政策の一環として日本初のガラス工場、

品川興業社硝子製造所が開設され日本での近代的な硝子生産の試みが始まった。

興業社は三条実美,村井三四郎,丹羽正庸が品川宿東海寺裏に設立したガラス工場で、

1876年に工部省が買上げて「品川硝子製作所」と改称した。

1881年(明治14年)には当時最先端の技術を持ったイギリスから御雇い外国人として

カットグラス技師・エマヌエル・ホープトマンを招聘し技術導入が行われ数名の日本人が師事、近代的な技法が確立され以後発展した。

このように江戸切子のルーツは長崎を窓口として広まった蘭学による江戸の

硝子技術・職人、また薩摩切子廃絶に伴う技術の移転そして

イギリス・アイルランドのカットグラス技術等が融合していったのと考えられる。

大正期から昭和初期(開戦前)にかけての大正文化・モダニズムの時代にカットグラスは人気となり、

食器からランプにいたる多様な形で普及する(現在、和ガラスと言われるもの等)。

大正文化・モダニズムの時代にカットグラスは人気!

第一次世界大戦に伴う産業構造の変化や素材の研究(安価なソーダガラスの素材等)や

クリスタルガラスの研磨の技法の開発もあって、高級品の代名詞的存在となった。

当時のメーカーには佐々木硝子(後の佐々木クリスタル。

現在の東洋佐々木ガラス)、岩城硝子(品川硝子製作所元職工長・岩城滝次郎が創立した日本初の民間洋式ガラス工場。

現・AGCテクノグラス)、岡本硝子などがありドイツ留学から帰国した

各務鑛三の各務クリスタル硝子製作所(現・カガミクリスタル)の創業も昭和初期。

その他多くの問屋が存在した。

太平洋戦争中は平和産業のため制限下に置かれ、多くの職人も出征。

残った職人たちは転業や疎開、またその加工技術から戦闘機向けガラス加工など軍需生産にも動員された。

戦後、主な生産地であった江東一体の下町は灰燼に帰し戦中の制限もあって業界は壊滅的打撃を受けていた。

その荒廃の中から各メーカーや問屋に加え、新たに旧軍向け光学レンズからガラス食器に参入・技術転用し後に

世界的なクリスタルガラスブランドへと発展した保谷硝子(現・HOYAクリスタル)などの

カットグラス生産に切子職人たちが関わり復興していく。

その背景にはGHQの進駐によるガラス食器の発注や海外向け高級シャンデリア等の輸出など

「外貨獲得の戦士」と称された時代、さらに高度経済成長期など生活の洋風化に伴うグラス・花器・洋食器の普及・需要増があった。

復興・成長期を経た後は発達してきたロボット・マシンメイドによるカットグラス加工の

機械化・量産化がメーカーで進むほか、格安な輸入品の増加によって職人の下請け加工は仕事量と質が大きな影響を受け始める。

昭和50年代に入り行政の伝統工芸や地場産業振興の政策をうけ、組合が江戸切子として東京都伝統工芸品指定を受ける等、

伝統工芸の看板として掲げた活動も進みはじめる。しかし円高不況による輸出の減少やバブル崩壊からの

長期不況を受けメーカー・問屋・吹きガラス工場の廃業・撤退等も見られるようになり、

クリスタルガラス素材を始めとする素材入手困難化や取引先・販路の縮小・変化が顕在化する。

仕事量の減少は職人育成の余裕も減らす事となり、後継者の不足と高齢化の課題を抱えるなど複合的要因から廃業も多くなっている。  

以上はウイキペディア。

 

 

魔除けの象徴である疫病退散の妖怪「アマビエ」

暑い夏にふさわしい江戸切子!魔除けの象徴である疫病退散の妖怪「アマビエ」

 

今日のまとめ。

この暑い夏にふさわしい江戸切子!

そよ風に響く風鈴や、繊細なカットが光り輝く切子。涼を誘うガラスには軒先に卓上にと日本の夏を彩ってきた。

「魔除けの道具」がルーツの風鈴は、今、ささやかな疫病退散の願いを込めて注目を集める。

江戸時代から連なる伝統の技は、歴史の荒波を越えて受け継がれ、江戸の意匠として息づいている。

100年、200年の昔を感じながら、ガラスならではの涼やかさや柔らかい音を楽しんでもらえたらと!

絵付けされ完成した風鈴を手に取ると、素朴で愛らしい丸みは、ひとつひとつが少しづつ異なる!

江戸風鈴の絵柄はかつて、全体を赤く塗った「魔除けの色」が最も好まれた。

時代は巡り、コロナ禍の今年は新たな魔除けの象徴である疫病退散の妖怪「アマビエ」が人気を博している。

知らないうちに広めちゃうから!STOP・感染拡大!

「ガラス作りのトップランナーは長崎だった。

長いスパンで考えると東京の歴史は極めて新しい」。

なぜ東京で伝統が培われたのか。

ミシュラン三つ星の「日本領地 龍吟」東京・千代田 を訪ねると、

コース料理の最後を飾る色鮮やかなソルベのデザートが、江戸切子の透明なお碗盛られていた。

口にすると柑橘類の爽やかな味わいが広がり、照明にきらめく器のカット文様が目にも美しい。

このように江戸切子のルーツは長崎を窓口として広まった蘭学による江戸の硝子技術・職人、

また薩摩切子廃絶に伴う技術の移転そしてイギリス・アイルランドの

カットグラス技術等が融合していったのと考えられる。

魔除けの象徴の「アマエビ」が人気を博しているそうで、新型コロナの時代を映し出しています!!

Pocket

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

ABOUTこの記事をかいた人

私はかなり高齢な建築家です。出身は伊豆の湯ヶ島で多くの自然に触れて育ちました。少年時代の思い出も記事になっています。趣味が多くカテゴリーは多義に渡ります。今は鮎の友釣りにハマっています。自然が好きで自然の中に居るのが、見るのが好きです。ですので樹木は特に好きで、樹木の話が多く出てきます。 電子書籍作りも勉強して、何とか発売できるまでになりました。残り少ない人生をどう生きるかが、大事です。