泡立つ心の声に従い挑む!醸造家リシャール・ジョフロワさん!高級シャンパン「ドン・ペリニヨン」の最高醸造責任者を1990年から28年務めた!

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泡立つ心の声に従い挑む!醸造家リシャール・ジョフロワさん!高級シャンパン「ドン・ペリニヨン」の最高醸造責任者を1990年から28年務めた!

泡立つ心の声に従い挑む!醸造家リシャール・ジョフロワさん!高級シャンパン「ドン・ペリニヨン」の最高醸造責任者を1990年から28年務めた!

 

Richard Geoffroy 1954年フランス生まれ。

医学生として8年学んだ後、一転シャンパンの世界へ。

高級シャンパン「ドン・ペリニヨン」の最高醸造責任者を1990年から28年務めた。

現在は富山県の日本酒造会社の会長として日本酒づくりに携わる

フランスシャンパーニュ地方に住み、

「日本企業の会長になっても、住むのはここ」と地元への愛着を語る。

 

 

ドン・ペリニヨンを28年間造った男の日本酒とは—–富山発「IWA」!


泡立つ心の声に従い挑む!

 

「自分では人生の大きな転機をしてきたつもりはないよ。

自分の心に従ってきたんだ」。

フランス高級シャンパン「ドン・ペリニヨン」の

最高造像責任者を28年務めたリシャール・ジョフロワさんは、

「医学」、

「シャンパン」、

「日本酒」の3つの道に挑み、人生を熟成させてきた。

 

 

リシャール・ジョフロワによる酒における現在の最適解!


日本酒の酒造会社、白岩(富山県立山町)の会長を務め、日本酒「IWA 5」に力を入れている!!

 

日本酒の酒造会社、白岩(富山県立山町)の会長を務め、日本酒「IWA 5」に力を入れている。

ジョフロワさんの自宅にはフランス東部シャンパーニュ地方にある。

ここを拠点に、ビデオ会議で日本側の同社幹部らと

日本酒の可能性を追求する日々を続けている。

1954年、シャンパーニュ地方で数代続くワイン農家の家庭に生まれた。

子供の頃から外交的で、友人も多かった。

知らないことがあると、周囲を質問攻めにする。

その頃から世界に広がる仕事がしたいとの思いがあった。

年の離れた兄が2人いたものの、ワイン生産に興味がなかったため、

「小さい時から、私は将来はワイン農家になることが決まってしまっていた」。

直接言われたことは1度もないが

「後継ぎはお前だ」との父の視線を感じて成長したという。

 

 

医学を離れ代々続くワインの道へ!リシャール・ジョフロワさん!


8年学んだ医学を離れ代々続くワインの道へ!!

 

そんな少年期を経て、同地方にあるランスの大学で

選んだのはワイン生産とは無関係の医学だった。

心の底から医師になりたかったわけではない。

「決まりすぎた将来への私なりの反抗だったんだ」。

両親は医学生となった自分の選択を尊重してくれたが、

徐々に反抗心で医学を続けるのは間違っているとの思いが強くなる。

人生で最初の転機が訪れた

約8年医学を学んだ20代後半、決断してフランスにあるワイン生産の学校に入った。

「次にやることがわかっていれば、今やっていることはやめられる」

ワインの道に入ると決めた時の父の反応が忘れられない。

「嬉し泣きしていた。だが、すこく驚いた様子でもなかった」。

実家はつがなくても、息子はいつか

ワイン生産に戻ってくるとわかっていたのかもしれない。

学生は10代の学生ばかりで、10年近く遅れたスタートだった。

「医学生として学んだ技術は人生についての考え方以外、全て忘れた。

自分の記憶から消したんだ」

ワイン生産を学ぶうち、ワインには世界の人に

魅力を伝える大きな可能性が広がっていると感じるようになる。

友人のように大学でワインの研究を続ける道もあったが、

国外に飛び出したいとの思いが抑えきれなくなる。

卒業後の84~85年、米カルフォルニア州の

ワイン農家でインターンとして1年間働いた。

ワインを発酵槽から別の

発酵槽に移すなどの「簡単な仕事」だったが、

楽しいと思える仕事を見つけられたとの充実した思いを得た。

フランスのワインの歴史を重んじ、

生産方法や格付け、

呼称、

ラベルの表示などを厳格に定めている。

高い品質と世界が認める圧倒的なブランド力を保つために

欠かせない仕組みだが、考え方が保守的、内向きになるとの指摘もある。

そんな中で「ワイン生産の経験を米国で始められたのは幸運だった。

開かれた世界を見ることができた」。

インターン終了後、高級シャンパン「モエ・エ・シャンドン」で働き、

技術顧問としてスペインやオーストラリアに派遣された。

地元ワイン農家と協力して、新たな発泡ワインを造る役割を担っていた。

「どうしても反応がおかしい」。忘れられない失敗をしたのがこの時だった。

86年、スペイン北東部カタルーニャ州で地元農家を

支援して新商品を造ったが、周りの反応が芳しくないことに気づいた。

土地の歴史、地元の人の好みや味を忘れ、

自分の価値観を押し付けて、ワインを造ってしまったのだと気付く。

 

 

日本酒の未来は日本の外にある!


日本の文化にほれ込み!富山県で日本酒を醸造!

 

「振り返れば、当時の私は慢=ゆるやか だった」ワイン作りには、土地のNAを忘れてはいけない。

この反省は90年から務めたモエ・エ・シャンドンが生産する

「ドン・ペリニヨン」の最高醸造責任者としての姿勢にも影響を与えた。

最高醸造責任者を務めつ傍ら、次に進むべき道も考えていた。

伝統料理を通じて日本に興味を持っていたことから「自分の次の人生は日本だと決めていた」。

世界の認知度がまだ低く、大きな伸び代のある日本酒の醸造に関わることを決め、退く数年前から準備を始めた。

「1つの人生の区切りがつく時、次の用意がもうできていないといけない」

一人では実現できないことは分かっていた。「私の考えを理解し、一緒についてきてくれる日本人が必要だった」。

ドン・ペリニヨンのプロジェクトで05年に知り合った

著名建築家、隈研吾さんに相談したところ創業のパートナーとなる

枡田酒造店(富山市)との出会いにつながり、富山での醸造に行き着いた。

60代半ばでの新たな挑戦だった。

シャンパンで培ったアッサンブラージュ(混合)の技法を応用し、複数の日本酒を混ぜて自社製品を作る。

「どんな土地でできたかを大切にする日本酒の考え方を壊さないようにしつつ、飲みやすさを追求している」。

日本酒は生産者の努力に比べて安すぎ、もっと国外で評価されてもおかしくないとの信念を持つ。

例えばフランスでの普及は途上段階で、アルコール度数が高い蒸留酒と勘違いされている場合もある。

状況を打破しようと、

シンガポール、

オーストラリア、

インドネシアなどへの自社製品の輸出にも力を入れる。

世界を飛び回ってきたが、自分の住むところはシャンパーニュ地方だとの強い思いを持つ。

「1年に12回日本に行ったこともあるし、私は日本の熱狂的なファンだ。

でも日本への移住は考えていないよ。

移住は自分にとって不自由なことだと思う」

頭の中では日本酒をどう魅力的にするかの考えであふれている。

「同年代の私の友人は仕事を辞めて引退しているよ。

でも私にとって精神的に働くということが、若さを保つ方法なんだ」

モットーは「The origin is the destination(物事をするときは原点を目指す)」。

その言葉を胸に秘め。

ジョフロワさんの挑戦は続く。  

白石透  武田正彦撮影。

 

 

毎日最低1時間、時には数時間の散歩を欠かさない!


My Charge!愛犬との散歩 毎日1時間超!

 

毎日最低1時間、時には数時間の散歩を欠かさない。

自宅があるシャンパーニュ地方の街は人通りも少なく、

すぐ近くにはキノコが取れる森や葡萄畑が広がる。

「この街に住めて恵まれているとても静かだと思わないか」。

車が途絶えると聞こえるのは風の音だけになる。

「通信、交通だとかあらゆるものが早くなりすぎた

現代で、ゆっくりと考える時間がいると思うんだ。

運動のためと言うより、心のためだな」と説明する。

散歩は自然とつながった感覚を得られる瞬間だ。

「もうある種の儀式なのかもしれない。

この時間がなかったら、自分の心が危険と

言ってもいい状態になる。

それくらい大事なんだ」

 

 

私を知っている人は、皆このバックとセットにして私のことを思い出すはずだ!


じっくり考え心にゆとりを!!

 

家族と一緒に出かけることもあるが、必ず愛犬のゴールデンレトリバー「ルナ」がぴょんぴょんと飛び跳ねながら楽しそうについてくる。

人懐っこく好奇心旺盛で、面白そうなものを見つけて少し遠くに行ってしまうこともあるが、呼ばれるとすぐに戻ってくる。

「ルナ抜きで散歩することは考えられない。人のことを思いやれるとても賢い犬なんだよ」と相好を崩す。

社会人として活躍してきた30年間を共にしてきたのが、黒いルイ・ヴィトンのカバンだ。

「もう直せないくらい使い古されているだろう」と持ってきたカバンはジッパーなどが所々こすれてていた。

だが、ずっしりと落ち着いた質感で独特の存在感だ。

1990年ドン・ペリニョンを手がけ始めた時、「モエ・エ・シャンドン」の幹部にクリスマスプレゼントとしてもらったという。

このカバンを持って世界中を飛びまわった。

人と会い、知らない世界を発見することを何よりの楽しみにしてきたが、その思い出がよみがえる。

自分の30年間を象徴する持ち物でもある。

「私を知っている人は、皆このバックとセットにして私のことを思い出すはずだ」と言う。

「もう私の体の一部だと思う。

このカバンをもたづに移動したことは絶対に、絶対に無い。ただの1日もない。

自分でも信じられないな」と強調した。

別のカバンに変えようかと思ったことはあるが、

愛着を感じて結局使い続けている。

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ABOUTこの記事をかいた人

私はかなり高齢な建築家です。出身は伊豆の湯ヶ島で多くの自然に触れて育ちました。少年時代の思い出も記事になっています。趣味が多くカテゴリーは多義に渡ります。今は鮎の友釣りにハマっています。自然が好きで自然の中に居るのが、見るのが好きです。ですので樹木は特に好きで、樹木の話が多く出てきます。 電子書籍作りも勉強して、何とか発売できるまでになりました。残り少ない人生をどう生きるかが、大事です。