気球が浮かぶ岩の街!奇岩遺跡の上空には、この地ならではの絶景を眼下に楽しむ熱気球があちらこちらに浮かんでいる!

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気球が浮かぶ岩の街!奇岩遺跡の上空には、この地ならではの絶景を眼下に楽しむ熱気球があちらこちらに浮かんでいる!

気球が浮かぶ岩の街!奇岩遺跡の上空には、この地ならではの絶景を眼下に楽しむ熱気球があちらこちらに浮かんでいる!

 

さまざまな奇岩が林立する、カッパドキア。

国内屈指の観光スポットとして知られる広大な奇岩遺跡の上空には、

この地ならではの絶景を眼下に楽しむ熱気球があちらこちらに浮かんでいる。

周辺火山から流れ出た溶岩の堆積と風雨の浸食で形成された自然の景観だ。

ローマ帝国から迫害を受けた初期のキリスト教徒は

この地に逃れ、数世紀にわたり隠れ家とした。  

<行き方> 羽田空港ーネヴィシェビル・カッパドキア空港(イスタンブール経由、約16時間)ー車で約1時間。 

NATIONAL GEOGRAPHIC。

 

 

「気球ツアー」では、数千年もの歳月がつくりだした自然の神秘を堪能できます!

「気球ツアー」では、数千年もの歳月がつくりだした自然の神秘を堪能できます!!

 

[一生に1度の絶景に出会える!カッパドキア気球ツアー]    

トルコの中央アナトリア地方に広がるカッパドキア。

「気球ツアー」では、数千年もの歳月がつくりだした自然の神秘を堪能できます。

現地で味わった気球ツアーの感動体験をご紹介します!

[トルコの人気観光地・カッパドキアって?]    

「キノコ岩」や「ラクダ岩」、

「三姉妹の岩」など、

珍しい形の大きな岩々で有名なカッパドキア。

これらは、数千年前に繰り返し起きた噴火によって作られた溶岩の層が、長い時間をかけて雨風に浸食されてできたものです。

ギョレメ村を中心に、トルコ観光のハイライトと言っても過言ではありません…!

大地いっぱいに広がる褐色の世界は、自然が生み出す神秘を感じさせてくれます。

[一生に一度は体験したい!絶景・気球ツアー!]    

カッパドキアに行くなら、ぜひおすすめしたいのが「気球ツアー」です!

カッパドキアのユニークな風景を上空から堪能できます。

ホテルへのお迎え時間が朝5時ごろとかなり早朝ですが、早起きする価値のある絶景を見ることができます!

朝日が昇る前に、気球を膨らませてスタンバイします。

早朝はとても寒いのでコートなどの防寒具は必須です!

フルーツジュースやシミット(トルコ風ゴマパン)等の軽食をバルーン会社の方が提供してくれます。

上空の気圧の変化で体調を崩さないように、しっかり食べましょう!

日の出とともに、空中散歩のスタートです!

ただ気球で高くに昇るだけではなく、空の上から大きな岩々を見下ろしたり、

地上すれすれまで降りて空からでないと入れない場所に行ったり、感動とスリル満点のフライトです♪

朝日に照らされながら浮かぶ気球の景色は、1度見たら忘れられこと間違いなしです。

[空中散歩のあとは、シャンパンで乾杯!]    

無事地上に降りると、スパークリングワインのサービスと飛行証明書の発行があります。

実はカッパドキアは、ワインの産地としても有名なんです。

おいしいワインですが、朝から飲みすぎには注意しましょう。

飛行証明書は、日付と自分の名前入りのものがもらえます。

旅のいい思い出になりますね!

[気球が飛べる条件は厳しい!狙うなら4月~9月]    

気球ツアーが催行される条件は、天気が良く上空の気流が安定していることです。

近ごろ、催行可否の決定権が気球会社からトルコ政府に移り、

催行条件も厳しくなりました。

1か月のうち3分の1、悪い時では半分ほどはキャンセルになることも。

ただ万が一キャンセルになってしまったら、ツアー代金は返金されます。

カッパドキアに連泊するなら翌日に振り替えてもらえるシステムもあるので、ご安心ください!

ですが、せっかく行くならやはりキャンセルは避けたいところ。

比較的気候が安定する4~9月がおすすめです!

最近では、ほとんどのツーリストが気球ツアーを目的にカッパドキアを訪れています。

一生に残る経験を求めて、あなたも

神秘の地カッパドキアへ行ってみてはいかがでしょうか!    

旅 ポケットより。

 

トルコはワイン発祥地の一つです!ブドウの生産量は世界トップクラスで、ワイン醸造に適した固有品種も数多くあります!

トルコはワイン発祥地の一つです!ブドウの生産量は世界トップクラスで、ワイン醸造に適した固有品種も数多くあります!

 

[トルコのお酒・飲み物]    

「トルコワイン・ワインテイスティング・ワイン醸造」   

トルコはワイン発祥地の一つです。

ブドウの生産量は世界トップクラスで、ワイン醸造に適した固有品種も数多くあります。

ここでは、トルコワインの特徴や歴史、産地、おすすめ銘柄から、

ワインテイスティングができるトルコのお店までご紹介します。

[トルコワインの歴史]    

日本ではまだまだ知られていないかと思いますが、

実は紀元前4000年前、即ち今より6000年前から

トルコのアナトリア地方でワインは造られています。

トルコのアナトリア地方でワインは造られています!

トルコはワイン発祥地の一つでもあるのです。

紀元前1600年頃に中央アナトリアで繁栄した

ヒッタイト帝国の文献には、神々に捧げる物(日常に食していたものを捧げていた)として

パン、ビール、そしてワイン」とあるほど、

トルコの地ではその時代からワインが一般に飲まれていたようです。

英語の「wine」やフランス語の「vin」は、ヒッタイト語で

ブドウとワイン両方を意味する「wiyana」が起源とも言われております。

また、旧約聖書のノアの箱船の物語(創世記)ではワイン作りが始まったのは

東部アナトリアであるとの記述があり、古代人もワイン発祥の地と考えていたとのことです。

ヒッタイト帝国とその首都「ハットゥシャ遺跡」の見どころ

徹底解説 | トルコ旅行・ツアー・観光なら、安心の『ターキッシュエア&トラベル』におまかせ!

[トルコは世界トップクラスのブドウの名産地]    

トルコの大地はワインの元となるブドウ栽培に適した土地で

約1,200種のブドウが育てられており、生産量は約420トンで世界第6位(2017年)。

約1,200種のブドウが育てられており、生産量は約420トンで世界第6位(2017年)!

ブドウは主に生食・干しブドウなど食用に栽培されていて、

その中の3%がワインになっております。

ちなみに種無しブドウに限ると、

生産量は27万トン、

輸出量は23万トンと世界トップです。

[トルコのワインの特徴]    

トルコ語でワインは「ŞARAP(シャラプ)」。

赤ワインは「KIRMIZI ŞARAP(クルムズ・シャラプ)」、

白ワインは「BEYAZ ŞARAP(ベヤズ・シャラプ)」と言います。

イスタンブールから西のトラキア地方やエーゲ海地方、

カッパドキアのある中央アナトリアなど、

全国各地でワイン造りが盛んにおこなわれており、

ワイナリーも各地にあります。

トルコのワインはフレッシュで香り豊かで飲みやすいのが特徴です。

近年は品質も向上し、ヨーロッパのワインコンクールでも

賞を取るようになるなど、世界でも評価が高まってきました。

トルコワインは、国際品種の

カベルネ・ソーヴィニョンや

メルロ、

シャルドネ、

シラーなどからも造られておりますが、

トルコ固有のブドウ品種から作られたワインも多数ございますので、ぜひお試しください。

各地のワイナリーで飲み比べをするのも最近の密かなブームです。

[トルコワインは値段もリーズナブルでお土産としても人気!]    

トルコは日本に比べて物価が安く、雑貨はもちろん、食べ物・飲み物もリーズナブルに買えます。

トルコ産のワインは、テイスティングのできるワイン専門店やワイナリーだけでなく、

スーパーなどでも販売されており、手ごろなものならボトル1本700円程度で購入可能です。

トルコ旅行のお土産として、上質なトルコワインを買って帰るのもおすすめです。

トルコ旅行でおすすめのお土産ランキングBEST25!雑貨・お菓子・化粧品 |

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TURKISH Air&Travel より。

 

 

 

カッパドキア!アンカラの南東にあるアナトリア高原の火山によってできた大地をいう!

カッパドキア!アンカラの南東にあるアナトリア高原の火山によってできた大地をいう!

 

カッパドキア(ラテン語: Cappadocia)はトルコの中央アナトリアの歴史的地域、

あるいはアンカラの南東にあるアナトリア高原の火山によってできた大地をいう。

古代の地理においてCappadocia(「美しい馬の地」を意味するペルシア語: Katpatukに由来、

トルコ語: Kapadokya, ギリシア語: Καππαδοκία)は、小アジア(現代のトルコ)の広大な内陸地域を指した。

ヘロドトスの時代には、「カッパドキア人」がタウロス山脈から黒海)までの全域をなしていた。

この意味でのカッパドキアは、南ではタウロス山脈と、東ではユーフラテス川と、

北はポントス地方(黒海沿岸部)と、西はおよそトゥズ湖と境界を接していた。

だが、その境界を正確に定義することは不可能である。

その国の多少とも詳細な記録を記したただ一人の古代の著述家ストラボンは、

その大きさを非常に誇張したが、現在は長さ約250マイル、幅150マイル以下の範囲だったと考えられている。

 

 

カッパドキアという呼称の最初の記録は、紀元前6世紀後半に遡る!


外部リンク由来!

 

カッパドキアのカルスト状の山

カッパドキアという呼称の最初の記録は、紀元前6世紀後半に遡る。

そこでは、2人のアケメネス朝初期の

王ダレイオス1世とクセルクセス1世について3言語で書かれた碑文に

ペルシア帝国を構成する一地方(古代ペルシア語でdahyu-「州」)として現れている。

地方についてのこれらの一覧の中で、古代ペルシア語での名称はKatpatukaであるが、

ペルシア固有の言葉でないことは明らかである。

エラム語とアッカド語版の碑文も、類似の名称を含んでいる。

ヘロドトスは、カッパドキア人という名称はペルシア人

(しかるに、彼らはギリシア人によって

「シリア人」

「白いシリア人」(Leucosyri)と呼ばれた)

によって用いられたと伝えている。

彼が言及したカッパドキアの部族の一つは

w:en:Moschoiであり、彼らはフラウィウス・ヨセフスによると、

旧約聖書の人物ヤペテの息子メシェク(Meshech)に結び付けられ、

ここにある「マザカ」という都市はメシェクが

訛ったものとされた(『ユダヤ古代誌』第I巻vi章の解説より。

『ミシュナー』のw:en:Ketubot 13:11も参照。)

ペルシア帝国後期の皇帝の支配のもとで、

彼らは2つのサトラペイア、すなわち行政区に分割された。

中央と内陸の部分を含む一方に対して、ギリシアの地理学者によって

カッパドキアの名前が使われ続け、そして他方はポントスと呼ばれた。

この分割はクセノフォンの時代以前に既になされていた。

ペルシア帝国滅亡後も2つの州は分離され続けたので、

両者の区別は恒久化された。

カッパドキアは内陸の州(時に大カッパドキアと呼ばれる)に

限定され、これのみが本稿の焦点となる。

カッパドキア王国はストラボンの時代すなわち

紀元前1世紀にはまだ名目上は独立国として存在していた。

キリキアはその国全体の首都である

カエサレア・マザカ(現在のカイセリ)が

位置する地域に与えられた名前である。

ストラボンは、

カッパドキアの中で2つの都市のみが名を挙げるにあたいすると考えた。

それは カエサレア(元はマザカとして知られた)と

テュアナw:en:Tyanaで、タウルス山脈の麓から遠くない位置にあった。

 

 

歴史・熱気球から観たカッパドキアの奇観!

歴史・熱気球から観たカッパドキアの奇観!

 

カッパドキアは、後期青銅器時代にハッティ人として知られ、

ハットゥシャに中心を置いたヒッタイト軍の本拠地となった。

ヒッタイト帝国の滅亡の後、紀元前6世紀のクロイソスによる敗北以後の

シリア系カッパドキア人の衰退によって、カッパドキアは強固な

城に住み、農民を奴隷状態においた、

一種の封建貴族の軍政に委ねられた。

これは後に、彼らをして、外国の奴隷制度に適した者とした。

カッパドキアはアケメネス朝のダレイオス1世によって

設置された区画の中で第3サトラペイアに含まれた。

しかし、誰もその地方全体に対して明確に至上な存在ではなく、

ペルシア王に対してほぼ完全に従属した

地元の支配者たちによる統治が長く続いた。

紀元前4世紀中頃には

サトラップのダタメスによって徹底的に抑えられた。

後に彼はペルシア王に反旗を翻したものの、敗死した。

カッパドキアは、一人の統治者

アリアラテス1世のもとで独立を回復した。

彼はアレクサンドロス3世と同時代の人であり、

アケメネス朝が滅びた後も、カッパドキアの王位を維持した。

この地域にアレクサンドロスが訪れることはなかった。

彼は、小アジアから出発する前にアリアラテスに

よってなされた彼の統治権への従属的承認で満足した。

そして、土着王朝の継続はアレクサンドロスの

死後の短い期間のみ中断された。

なぜならその時、帝国の全体的な分割の中で、

王国はアリアラテスの許可を得ることなく

エウメネスのものとなったからだ。

彼の権利は、アリアラテスを磔刑にした摂政の

ペルディッカスによって紀元前322年に履行された。

しかしエウメネスの死をもたらした紛争の中で、

アリアラテスの息子は遺産を回復し、それを後継者の血統に残した。

アリアラテス4世の治下に、カッパドキアは

共和政ローマとの関係を持つにいたった。

最初はセレウコス朝のアンティオコス3世の主張を

支持し敵対者として、それからマケドニア(アンティゴノス朝)

王ペルセウスに対抗する同盟者としてである。

王たちはこれ以後、それまで折々に従属してきた

セレウコス朝シリアに対抗して、共和政ローマと同盟した。

アリアラテス5世はローマのプロコンスル(前執政官)

プブリウス

・リキニウス

・クラッスス

・ディウェス

・ムキアヌス(en)とともに

アッタロス朝(ペルガモン王国)の

王位主張者アリストニコス(エウメネス3世に対して軍を進めたが、

彼らの軍は殲滅された(紀元前130年)。

彼の死後の混乱は最後には、

勃興するポントス王国の

介入と王朝の崩壊に終る陰謀と戦争を招いた。

 

 

カッパドキア属州の位置!

カッパドキア属州の位置!

 

カッパドキア人は、ポントス王ミトリダテス6世に対してローマの支援を受けつつ、

地元の後継領主にアリオバルザネス1世を選任した(紀元前93年)が、

第三次ミトリダテス戦争でミトリダテス6世が敗死し、

ティグラネス2世(アルメニア王)がローマへ屈服するまで、彼の支配は確立されなかった。

ローマの内戦中には、カッパドキアはグナエウス・ポンペイウスに組し、

次にはガイウス・ユリウス・カエサルにつき、またマルクス・アントニウスに従い、

そして彼に対抗した。

アリオバルザネス王朝は終わりを迎え、その代わりにアルケラオスという人物が、

始めはアントニウスの、次に初代ローマ皇帝アウグストゥスの支援によって統治した。

この従属的独立は紀元17年まで維持されたが

ティベリウス帝の時代、アルケラオス王の不名誉な死とともに、

カッパドキアはついにローマの属州となった。

カッパドキア属州は州都をカエサレア(現:カイセリ)に置き、

1世紀の後半には

ポントゥスやアルメニア・インフェリオルの領域の一部も併せられた。

ローマ帝国にとって最北東の属州であり、

2個軍団といくつかのアウクシリアが常駐した。

284年に皇帝となったディオクレティアヌスは東方属州の再編を行い、

カッパドキア属州は元々の属州面積に戻された。

330年、カッパドキア属州の東半分が

アルメニアに新たに設置された属州へ合併させるため分離された。

371年、ウァレンス帝はさらにカッパドキア属州の南西部を

カッパドキア・セクンダ(Cappadocia Secunda)として分離させ、

残った北東部はカッパドキア・プリマ(Cappadocia Prima)と名付けられた。

アナトリア半島のテマ制(650年)

カッパドキアはいくつかの地下都市を有しており、主として初期キリスト教徒によって、

隠れ場所として使用された。

4世紀のカッパドキアの神父たちは、

初期キリスト教哲学の多くに対して不可欠な存在であった。

535年にユスティニアヌス1世はプリマとセクンダの

2つの属州を再び統一のカッパドキア属州として統合した。

その後、イサウリア人による

襲撃を受け、7世紀前半までにカッパドキア属州は

サーサーン朝の支配下へ入ったが、

サーサーン朝がイスラム勢力によって滅ぼされると、

カッパドキアは東ローマ帝国の領土に再び組み入れられて、

アナトリコン(Anatolikon)と

アルメニアコン(Armeniakon)の2つのテマ制に再編された。

1071年のマラズギルトの戦いで

東ローマ帝国を破ったセルジューク朝がカッパドキアを支配。

セルジューク朝の崩壊後、一時期はKaramanoğluが支配したが、

15世紀までにオスマン朝がカッパドキアを領有し、

現在はトルコ共和国の領土内にある。

 

 

熱気球から観た顔おアドキアの奇観!


外部リンク!

 

世界遺産カッパドキア – 映画『雪の轍』公式サイト     

ウイキペディア。

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ABOUTこの記事をかいた人

私はかなり高齢な建築家です。出身は伊豆の湯ヶ島で多くの自然に触れて育ちました。少年時代の思い出も記事になっています。趣味が多くカテゴリーは多義に渡ります。今は鮎の友釣りにハマっています。自然が好きで自然の中に居るのが、見るのが好きです。ですので樹木は特に好きで、樹木の話が多く出てきます。 電子書籍作りも勉強して、何とか発売できるまでになりました。残り少ない人生をどう生きるかが、大事です。