歴史が刻まれた丘!米オレゴン州のジョン・デイ化石層国定公園の一角に、色彩豊かに斜面を彩られたペインテッド・ヒルズが!

Pocket


ペインテッド・ヒルズを訪れた筆者!


歴史が刻まれた丘!米オレゴン州のジョン・デイ化石層国定公園の一角に、色彩豊かに斜面を彩られたペインテッド・ヒルズが!

 

米オレゴン州のジョン・デイ化石層国定公園の一角を占める、色彩豊かな地層に斜面を彩られたペインテッド・ヒルズ。

変化に富んだ縞模様の地層は川の氾濫原だった時代に形成されたもので、巨大な丘には気候や地質に関する歴史が刻まれている。

初期の馬やラクダ、サイの化石が多く見つかり、古脊椎動物学の宝庫にもなっている。

行き方ー羽田空港ーポーランド空港=シアトル経由、約12時間ー車で約4時間。   

NATIONAL GEOGRAPHIC より。

 

 

ペインテッド・ヒルズは写真家のパラダイス!

オレゴンのもうひとつの顔:ペインテッド・ヒルズ!実はオレゴンは西側と東側で、まったく違った2つのパートに分けることができるのです!

 

[オレゴンのもうひとつの顔:ペインテッド・ヒルズ]    

オレゴンはビーバーの州として有名で、米国のこの地域は1年のほぼ10カ月が雨だということもよく知られています。

アメリカ人がイメージするオレゴンといえば、青々とした森、雪に覆われた山頂、

豊かな川などで、乾燥した荒野というこの州のもうひとつの顔を思い浮かべる人はあまりいません。

実はオレゴンは西側と東側で、まったく違った2つのパートに分けることができるのです。

境界線はカスケード山脈で、この火山起源の大山脈は海岸と平行に走っています

東側は西側よりずっと広さがありますが、ほとんどの人が住んでいるのは西側に位置する

ポートランド、ユージーン、セイラム、または太平洋沿岸部で、東側の大部分は手つかずの野生地となっています。

西側は緑豊かで湿気も多いですが、東側は乾燥した荒野が特徴です。

おもしろいことに、東西の違いは地理的特徴に関連するものばかりではありません。

政治的に見れば、歴史的にオレゴン州は民主党支持者の多い「青い州」ですが、

東部は共和党支持者が大半を占める保守的なエリアですし、人口統計的にも

まったく異なっていて、ポートランドや沿岸部ではさまざまな

民族を目にしますが、東側の住民は主に「白人系」アメリカ人です。

ペインテッド・ヒルズはオレゴン東部の代表的な観光スポットです。

母なる自然が生み出す芸術的な景色が広がっていて、地質学や地理学の研究にも最適です。

芸術性の高い手描きの絵画のように色鮮やかで、自然の産物とは思えない

非現実的な景観から、このように名付けられました。

色彩豊かな地層は、この地が熱帯気候の氾濫原だった古代に堆積した火山灰でできていて、

長い年月をかけて鉱物と溶け合い、このようなユニークな色合いを醸し出すようになりました。

ペインテッド・ヒルズを訪れた筆者

色彩の美しいペインテッド・ヒルズは、まるで色のついた

巨大な砂のお城のようで、画家や風景写真家にとってはパラダイスです。

日の当たり方で時間帯によっても色は変わって見えますし、季節によっても変わります。

晴れわたった日には、琥珀、オレンジ、黄、金の色調が黒やグレーのしま模様と混ざり合い、ひときわきれいです。

緑、金、黒、赤の色彩には、1日中どの時間帯でも

見とれてしまいますが、写真撮影にベストな光が当たるのは夕方です。

光と湿度が変化して、丘の色のトーンや色相をがらっと変えてくれるのです。

黒は褐炭と石炭、グレーは褐鉄鉱と頁岩、赤とオレンジはこの地が

高温多湿だった頃に堆積されたラテライトと焼土で、緑は岩のてっぺんに生えた低木です。

ペインテッド・ヒルズはミッチェルの町から10マイルほど

離れたジョン・デイ化石層国定公園内にあり、車でしか行けません。

利用できる施設は何もなく、あるのはハイカーのための

トレイルだけで、多くの野生生物が生息しています。

世界有数の豊かな化石発掘地のこの公園にやって来ると、4,400万年前に

タイムスリップしたような気分になりますし、オレゴンの最初の

定住者たちが築いた古代の塁壁を眺めることもできます。

ペインテッド・ヒルズは写真家のパラダイス

考古学ファンなら発掘現場をのぞいたり、現在は国定公園となっているエリア内の

地層から考古学者たちが発掘した、大量の出土品を見学したりすることもできます。

ここで見つかった化石も複数あり、先史時代の動物(三蹄馬、剣歯虎、太古の犬など)の

化石とともにビジターセンターに展示されています。

そばには米国屈指の長さを誇るジョン・デイ川が流れています。

この川には堤防がなく、じゃまするものがないので、ラフティングを楽しむには最高です。

川の景色は驚くほどきれいで、キャンプや魚釣り、バードウォッチングを楽しみたい人がのんびり小旅行するにもうってつけです。

園内にはピクニックエリアはいくつかありますが、手つかずの自然を保護するため、キャンプ施設はありません。

キャンプ場はジョン・デイ川の湾曲部にあって、そこには川釣りのおすすめスポットがありますし、絵のように美しいトレイルでマウンテンバイクを楽しむこともできます。    

特派員 パトリツィア・ マルゲリータ  

米国とイタリアに住んでおり、両国に深いルーツを持っています。

広く世界を旅する中、日本で4ヶ月を過ごし、桜とたこ焼きに恋をしました。

現在、世界中の友人からレシピを集め、料理の本を編集しています。    

ナレッジキャピタル より。

 

 

エコ・キャラバン隊長と行く「ノースウエスト自然探訪」!


人間史のone-way/オレゴン・トレイル!夕陽の果てに我々の新天地がある!

 

[人間史のone-way/オレゴン・トレイル]    

「夕陽の果てに我々の新天地がある」。

その思いで数十万の人々が2,200マイルの荒野を西に向かって歩いた。

19世紀半ばのアメリカ、”On to Oregon!”の言葉には魔性の響きがこもっていたのである。

[西へ動く「西部」]    

“Country road, take me home, to the place I belong …” 

ジョン・デンバーの「カントリーロード」で歌われている場所はどの辺りだろう?

と調べたことがある。コロラド?ワイオミング?

歌の出だしでウエスト・バージニア(東部)だと言っているのに、ずっと西部だと思っていた。

歌の場面のブルーリッジ・マウンテン、シェナンドー・リバーはいずれもワシントンDCのすぐそばだ。

え?いかにも西部風の歌じゃないか?と思う向きも多いだろう。

そう。これは「西部」を歌った歌だ。

ただし、それはアメリカ建国当初の13州の国土から見たもので、当時は

アパラチアン山脈を越えるとそこから西が未開の「西部」だったのである。

フェリー・ボート

▲アパラチアン山脈にあるシェナンドー国立公園(Shenandoah National Park)。

尾根筋を通るブルーリッジ・スカイライン(Blueridge Skyline)は、気持ちの良いシーニック・ドライブ。

ワシントンDCからの日帰りコースである。アメリカ建国当時の「西部」はここから始まった

のちにその西部は「中西部(Midwest)」と読み替えられるようになり、

「次の『西部』」はミシシッピー以西からロッキー山脈までに移る。

つまりルイジアナ割譲でアメリカがフランスから譲り受けた領土である。

さらに時代を下り19世紀に入ると「新『西部』」はさらにロッキー以西の太平洋岸まで。

つまり今の西海岸までを指すようになった。

このように「西部」を指す土地は時代と共に西へ拡張してきたのである。

「オレゴンへ!」1804~1806年にかけてルイス&クラーク探検隊が太平洋へ至るルートを探った。

彼らはもっぱら船を使った「川道」によった。

それから30年後、人々は幌馬車を連ね、家畜を追い立て「陸道」を西へ向かった。その道がオレゴン・トレイルである。

土地、金(きん)、仕事、布教……。

オレゴン・トレイルを通って西へ向かう人々が新天地に求めた夢はさまざまだった。

だが、十人に一人は志むなしくその旅の途上で命を落としたのである。

衛生と栄養の不良から来る病気、特にコレラが人々を苛(さいな)んだ。

父親に続いて母親が死に、子供達だけでオレゴンに着いた一家もある。路傍の石に7人家族全員の名が刻まれた墓も残る。

オレゴン・トレイルは平易な道ではなかった。

トレイルの出発点はミズーリ州インディペンデンスである。

当時の公共交通機関である汽船でミズーリ河をここまでさかのぼることができた。

西部へ向かう人達はここで船を降り、この街で食糧や日用品、牛馬や幌馬車を調達し、約半年間の旅支度を整える。

やがて春の訪れと共に数10台ごとの幌馬車隊を組んで西へ出発した。

ロッキー山脈を越えて終点のオレゴンシティーに至るまでの2,170マイル、約6カ月間の移住の旅である。

1836年最初に幌馬車でこの道をたどったのは宣教師のウィットマン夫妻。

1841年に最初の移住団がインディペンデンスを出発した。

1869年に大陸を横断する鉄道が完成し、オレゴン・トレイルがその役割を鉄道に譲るまでの20数年間、移住団は途切れることがなかった。

トレイルを通ったその数は約40~50万人と推定されている。

フェリー・ボート

▲オレゴン・トレイルそのものは、“原野の踏み跡”程度のものであるが、各地でかすかに残っているオリジナルのルートが現在まで保存されている。

この写真の場所はイースタン・オレゴンのフラッグ・マウンテン(Flag Mountain)。

丘の山麓を通る現存するオレゴン・トレイルを含む約2.5マイルの

セルフ・ガイデッド・トレイルは、訪れる人をそのまま

当時のオレゴン・トレイルへとタイムスリップさせる

フェリー・ボート

▲ワゴンの中はミニバンほどの広さである。

幌に使われたキャンバス地を使って作られたズボンが

丈夫だということで次第に人々の間に広まり、やがて今のジーンズとなった

 

 

西部の実像!ここで最後の野営を行った移住者達は久しぶりに触れた文明生活(?)にホッとしたに違いない!

西部の実像!ここで最後の野営を行った移住者達は久しぶりに触れた文明生活(?)にホッとしたに違いない!

 

[西部の実像]  

▲フィリップ・フォスター・ファーム。

ここで最後の野営を行った移住者達は久しぶりに触れた文明生活(?)にホッとしたに違いない。

建物の前庭の右手には、1843年に植えられたライラックの木がある。

これはフィリップ・フォスター一家がメイン州の庭からはるばるホーン岬を廻る船で持ってきて、この地に植えたもの

オレゴン・トレイルを語る場面に欠くことのできないもののひとつ「幌馬車」。

木の箱の上に、幌と4つの車輪を付けたワゴンである。このワゴンは実際には馬ではなく牛が曳いた。

牛は安く、辛抱強く、おとなしく、扱いやすい。いざとなると食糧にもなる。

何より牛は馬が食べないヨモギ(sage-bush)など、長い道中の砂漠に生える草を食べる。

荒野の長旅でワゴンを曳くのに牛は最適だった。

しかしこのワゴンを日本語で「ホロギュウシャ」と言うとなんとも語呂が悪い。

間延びする。実際、牛歩と言われるように歩くスピードはきわめて遅かった。

ワゴンは幅4フィート(1.2メートル)、長さ12フィート(3.6メートル)と狭い。

移住と野営の荷物がぎっしり積んであるため、人の乗るスペースはなく病人以外は乗らなかった。

移住者達は「幌牛車」と共にオレゴン・トレイルを歩いたのである。

オレゴン・トレイルの旅とはそのようなゆっくりした旅だった。

当時オレゴン・トレイルの目的地であったオレゴン、カリフォルニア地方は未開の処女地というわけではなかった。

先住民はもとより、イギリス、スペイン、アメリカ、ロシアからの猟師、山師、毛皮商人達がすでに大勢海から入っていたのである。

1850年の時点でオレゴン州の人口は12,000人余りだった。サンフランシスコはすでに大きな港町として賑わっていた。

太平洋にクジラを追う捕鯨船団の基地として、また、アジアの国々との交易の玄関口として、たくさんの人と船が去来していた。

街には貿易商社が軒を連ねていた。

コロンビア河をさかのぼったワシントン州バンクーバーにはイギリスのハドソンベイ会社が

交易所を開き、先住民や猟師達が大勢集まって毛皮などの取引を行っていた。

そして、ここが興味深いところなのだが、アメリカ東部から西部へ移住する手段は、オレゴン・トレイルだけではなかった。

ことにニューイングランド地方(アメリカ建国初期の13州)からの

移住者の多くが海路でサンフランシスコやワシントン州バンクーバーへやって来ていた。

海のルートは2つあり、ひとつは南米最南端のホーン岬を廻るコース。

もうひとつは大西洋側からパナマ地峡を越えて太平洋側へ船を乗り継ぐコースである(注1)。

1848年にカリフォルニアで金が見つかって以降は、

カリフォルニア・トレイルを通ってカリフォルニアやオレゴンへ金を求めて人が動いた。

ゴールド・ラッシュである。さらに、サンタフェ・トレイルを通って南西部を目指す人々もあった。

モルモン教徒の一団は東部での宗教上の迫害を逃れ、

モルモン・トレイルを通って15万人がユタへ移住し、自分達の新天地を建設した。

今日のソルトレークシティーである。

[先住民と移住民]  

「西部」と聞くと映画で見た西部劇のイメージを思い浮かべる人は多いが、

「幌馬車隊がネイティブ・インディアン(以下インディアン)に襲撃される」

というシーンはウエスタン映画が作った虚構のひとつである。

オレゴン・トレイルの道中、インディアンと移住者達は物々交換をしたり、

食料を分けてもらったり、ルートの案内役として雇ったりと

友好的な関係であったし、インディアンは移住者達に親切であった。

一度もインディアンを見ることなく旅したグループもあった。

フェリー・ボート

▲白人が入る前は大西部一帯でバッファローが大群を成して棲息していた。

西部開拓に向かう人々の格好のタンパク源としてのみならず、

ゲーム・ハンティングの対象として大量に射殺され絶滅寸前まで激減した

移住者達の一団はその日の野営地に到着して幌馬車を円陣に並べる。

これはインディアンの襲撃に備えるためでなく、その囲いの中に家畜を集めておくためだった。

1860年以降、移住団がインディアンの領地に立ち入るようになって両者に緊張状態が生まれることがあった。

が、争いが起こると双方共に困るのである。だから両者のリーダー達は賢明にふるまって争いを避けた。

たとえ一隊でも移民団が映画のようなインディアンの襲撃を

受けたとしたら、その話はまたたく間に、そして誇張されて伝わっただろう。

その時点で新西部一帯に大変な軍事的衝突、緊張があったはずだが、

オレゴン・トレイルではそういうことは起こらなかった(注2)。

毎年途切れることのなかった移住がそのことを裏付けている。

むしろ移住者達が持ち込んだ伝染病が先住者達にとっての最大の災厄だった。

大勢のインディアンがこのために命を落とした。

さらに後年は、移住民がバッファローなどを際限なくゲーム・ハンティングしたため、

先住民が生活の糧としていた野生生物が激減し、彼らを窮地に追い込むことになる。

※注1:オレゴン・トレイルを通って西部への移住が盛んだったころの日本は江戸時代末期。

嵐で船が難破して漂流の末、アメリカの地を踏んだ

漂流者のひとりに浜田彦蔵(ジョゼフ彦)がいる。

彼は史上初の日系アメリカ人となったばかりか、ピアース、ブキャナン、リンカーン

の3代の大統領と会った稀な日本人であった。

彼は海路ばかりでサンフランシスコとワシントンDCの間を3回も往復している。

※注2:アメリカ先住民、ネイティブ・インディアンと白人との歴史は、

侵入、迫害、圧迫のおびただしい数の悲惨な史実に満ちている。

南部、中原、北部と、当時の北米(南米も)の各地で酷い侵略と抵抗があった。

そんな中でオレゴン・トレイルと北西部は、大きな抗争のなかった希有な地域である。

そのことは、この地域の先住民達が圧迫を受けなかったことでは決してない。

機会があれば別の稿で取り上げたい。

 

 

トレイルに沿って!オレゴン・トレイルは西部の6州を通っている!

トレイルに沿って!オレゴン・トレイルは西部の6州を通っている!

 

[トレイルに沿って]  

オレゴン・トレイルは西部の6州を通っている。

現州名で東からミズーリ、カンザス、ネブラスカ、ワイオミング、アイダホ、オレゴンである。

西へ移住する人達は農民が多かった。

鍬や鋤を幌馬車に積み家畜を追いながらの移動なので、できるだけ平原で、

水も牧草も豊富な場所をルートに選んで進むことになる。

初期の1840年代初めには“ここがルート”というものはなく、前の隊の轍(わだち)をたどり、

それがなければ、前年、前々年の幌馬車隊の通った跡を追って旅していた。

前の隊が間違ったルートを進めば後の隊もそれに続くというようなことも往々にしてあったに違いない。

すぐに有象無象かつ玉石混合のオレゴン&カリフォルニアへの移住の

案内書『Emigrants’ guide, Oregon and California』がいくつも売り出され、

人々はそれを頼りに旅の準備を整え、道案内とした。

これらのガイドブックや磁石、踏み跡、原住民の道案内、単なる勘など、

あらゆるものを手掛りとし、彼らは西へ西へと歩く。

道中の目印となったものはルートの所々にあり、かつ現在までランドマークとして残っている。

特に大きな特徴のある形の岩山は格好の目印となった。現在各地にいくつもの「○○ロック」がある。

中でも、ネブラスカ州の西にある150メートルの高さのチムニー・ロックは、ロウソクのような岩で、

幌馬車と並んでオレゴン・トレイルの景色を代表するものである。

このほか、断崖や砦、交易所、渡河地点などは目印というより旅の要所として、移住者の間で伝えられていった。

オレゴン・トレイルを行く移住者の数が増えるとルートも次第に定まってくるが、旅の途上で亡くなる人達も多くなる。

西の地平に夢を描き、果たせなかった彼らの無念の思いが後に続く人達を導く。

トレイル沿いの人々の墓石もまた、貴重な道しるべになっていくのである。

オレゴン・トレイル

▼前編で紹介した国立オレゴン・トレイル資料館の屋外ディスプレー。

写真のワゴンは実際に使われていたもので、オレゴン・トレイル上に展示されている

大まかにオレゴン・トレイルの前半(東)1/3に当たる

カンザス、ネブラスカ州では、川に沿ったなだらかな平原が展開する。

旅を始めるのは春であり、この比較的楽な行程で人々は6日間移動して

1日休養するキャラバンのペースと生活技術を身に付けた。

続く中盤の1/3、ワイオミング、アイダホ州を進むころには季節は夏となる。

厳しい山越えと砂漠を通らねばならず、トレイル中で最も苦しいところだった。

大陸分水嶺はワイオミング州の西のサウス・パス(South Pass)。

ここは標高7,550フィート(2,300メートル)だが、広いなだらかな峠道である。

オレゴン・トレイル

▲フィリップ・ファームでは、休日にファーム保存会(?)のボランティアが開拓時のいでたちで、

アップル・サイダー、紅茶、クッキーなどをふるまってくれる。

こんなサービスを受けた移住者達はさぞや生き返った心地がしたことだろう

[道、米北西部に入る]  

終盤の1/3はオレゴン州。スネーク川、コロンビア川に沿った川沿いのルートである。

緑が多く、ブルー・マウンテン辺りは景色が素晴らしい。移住者達はいよいよオレゴンに入って来たぞと昂揚したに違いない。

しかし、川は深く流れは速い。水は冷たくて、当然ながら下流に向かうにつれてどんどん川幅が広くなっていく。

川を渡る、あるいは川を下るのは大変な苦労だった。

旅がこの辺りに差し掛かるころ、季節は夏の終わりから秋を迎え、

川で産卵のため上ってくる多くの鮭を捕り食するという自然の恵みもあった。

オレゴン・トレイル

▲ザ・ダレスの西にあるコロンビア・ゴージ・ディスカバリー・センター&ワスコ・カウンティ歴史博物館。

コロンビア川南岸の見晴らしの良い場所にある

オレゴン・トレイル最後の難関はコロンビア川中流にある現在のザ・ダレス(The Dalles)だった。

この付近にセリロ・フォールズ滝(Celilo Falls。注1)があり、川を下るルートを取る場合はワゴンをばらしていかだに乗せる。

中には命には代えられないと2,000マイルを連れ歩いてきた貴重な牛を売り、川下り専門のボートと人を雇って川を下る人達もあった。

下流にも激流地帯が随所にあり、岩にぶつかったり、波に飲まれたりする事故が後を絶たなかった。

川を行く危険を冒したくなければマウント・フッドの南麓を大回りする山道の「バロー・ロード(Barlow Road。注2)」を取った。

こちらは大変急な坂で、いずれのルートを選んでも危険は付いて回る賭けだった。

コロンビア川、バロー・ロード、この最後の難関を通って人々は苦難の旅の終点、オレゴンシティーに辿りついた。

オレゴン・トレイルを通ってきた数十万の人達の目にはその当時のオレゴン(北西部)の地はどのように映ったのだろうか? 

まず、人々の目に入ったのは木々の濃い緑と肥えた土の黒さだったろう。

実際にオレゴンシティーのあるウィラメット・バレー一帯は全米でも

トップクラスの沃土で、移住者には農民が多かったから、さぞうれしかったはずだ。

一方、貿易や海産の可能性を秘める太平洋の海は、農民達の目には単に西の地の果てと映ったのだろうか。

オレゴン・トレイル

▲エンド・オブ・オレゴン・トレイル・インタープリティブ・センターの入り口はうまく作られた舞台になっている。

インタープリテーションは入館前のここから始まっている

[なぜに人は西へ?]  

ルイス&クラークの探検行から30余年、歴史は近世から近代へと入る。

若き人工国家アメリカはひたすら膨張を続けた。国土も、人口も、経済も、である。

そして経済には景気の波が起きる。1837年と1841年の不況、その食い扶持のはけ口が西部への移住の引き金だった。

さらにその動きを後押ししたものが2つある。まず1848年にカリフォルニアで金が発見された。

ゴールドラッシュである。

そして1862年に制定されたホームステッド法(注3)が

本格的に西部開拓を推し進め、人々は自分達の農地を求めて続々とオレゴンを目指した。

オレゴン・トレイルは人類が最後に西へ向かって歩いた道だったと言えるだろう。

オレゴン・トレイル

▲インタープリティブ・センターの巨大な幌はI-205からもよく見える。

が、強風により2つの幌が外れたままだ。改修の目途は不明

陸地の空白地に満ちようと、哺乳類ヒト科は次々と自分達の足で歩いて棲息域──フロントを広げていった。

その先で1万年以上前に東へ広がってきた同属と出会うのである。まさに人類史の“East meets West”。

この遭遇は、太陽系の3番目の惑星に生命が生まれて以来セットされていた「天命」だったのかもしれない。

Lighthouse シアトル より。

 

 

米オレゴン夕日の果てに我々の新天地がある、これが西武の実像!

米オレゴン夕日の果てに我々の新天地がある、これが西武の実像!!

 

今日のまとめ。

米オレゴン州のジョン・デイ化石層国定公園の一角を占める、色彩豊かな地層に

斜面を彩られたパインテッド・ヒルズ。変化に富んだ縞模様の地層は川の

氾濫原だった時代に形成されたもので、巨大な丘には気候や地質に関する歴史が刻まれている。

初期の馬やラクダ、サイの化石が多く見つかり、古脊椎動物学の宝庫にもなっている。 

 オレゴンのもうひとつの顔:ペインテッド・ヒルズ!実はオレゴンは西側と東側で、まったく違った2つのパートに分けることができるのです! 

人間史のone-way/オレゴン・トレイル!夕陽の果てに我々の新天地がある! 

西部の実像!ここで最後の野営を行った移住者達は久しぶりに触れた文明生活(?)にホッとしたに違いない! 

トレイルに沿って!

オレゴン・トレイルは西部の6州を通っている! 

今日は色彩豊かな地層に斜面を彩られたパインテッド・ヒルズを紹介しました。 

馬やラクダ、サイの化石が多く見つかり、古脊椎動物学の宝庫!

実はオレゴンは西と東で全く違った2つのパートに分けることができます! 

米オレゴン夕日の果てに我々の新天地がある、これが西武の実像!

Pocket

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

ABOUTこの記事をかいた人

私はかなり高齢な建築家です。出身は伊豆の湯ヶ島で多くの自然に触れて育ちました。少年時代の思い出も記事になっています。趣味が多くカテゴリーは多義に渡ります。今は鮎の友釣りにハマっています。自然が好きで自然の中に居るのが、見るのが好きです。ですので樹木は特に好きで、樹木の話が多く出てきます。 電子書籍作りも勉強して、何とか発売できるまでになりました。残り少ない人生をどう生きるかが、大事です。