木曽路・奈良井宿の伊勢屋付近!
木曽路の魅力!中山道沿いに宿場が連なって!奈良井宿や妻籠宿や馬籠宿が代表格!!
木曽路にはなぜ魅力的な宿場が多く連なったのか研究してみたくなりました!
木曽路が魅力に満ちているのは、中山道に佇む宿場の魅力です!
中でも妻籠宿や馬籠宿と奈良井宿がその代表格です。
通り過ぎてゆく通りの石畳の美しさ旅人が踏みしめた温もりを感じます。
中山道は江戸時代の五街道の一つで京と江戸を結んだものですが、中山道は木曽を通るので「木曽路」と呼ばれています。
京と江戸の全工程が約540kmでその街道に69ヶ所の宿場が置かれ、そのうち11宿が木曽にあります。

これが木曽路の地図ですが、そのうち11宿が木曽にあります!
中山道木曽路の中でも最大の宿場町は妻籠宿、馬籠宿も以前訪問しましたが、
奈良井宿はその規模や保存状態からして一見の価値ありです。
多くは180年前~200年前の江戸時代末期の建築で当時の宿場の様子を良くとどめています。
内部を見学できる建物も2カ所ありますので、ぜひ見学されると良いと思います。
途中、道がクランクになっているところがあり、鍵の手といって
江戸時代に町の防御のためにわざと道を曲げている場所がそのまま保存されています。
また、街道の一番京都寄りにある神社の境内の杉の巨木に圧倒されます。奈良井宿について!!
「奈良井千軒」とも呼ばれ、かつて中山道における木曽路一番の賑わいをみせた宿場町。
木曽路最北端の贄川宿にも近い。広い土間や千本格子の美しい町並みは延長約1kmにもおよぶ。
そば屋、茶房、酒屋、土産屋、民宿などと住居が混在。そこで生活する人の息吹も感じられる中に、徹底した町作りがされている。
時代を超えた街道の賑わいに続く千本格子!

馬籠宿の石畳!
木曽路の魅力!石畳、千本格子、苔むす石仏や大樹!旅籠の活気!行灯の灯火!心にあたたかく響!
[木曽路の魅力]
宿場!
[石畳、千本格子、苔むす石仏や大樹。宿場の名残を見つめながら昔に帰る。]
なにげなく通り過ぎる石畳の道も、石のくぼみを見つめれば、はるか昔、幾人もの旅人が踏みしめた温もりを感じます。
旅籠の古びた柱や囲炉裏で煤けた天井も、静かに眺めていれば、その枯れた木肌のあちこちに、江戸の香りや笑い声、人々の姿が染みついていることに気づきます。
そしてふとした出会い、交わす言葉の端々に山里の温もりを感じます。
急ぎ足の旅よりも道草がてら、てくてくまわり道。
昔のままに、ゆっくりのんびり、ときには額の汗を拭きながら、そぞろ歩くのが木曽路にはとても似合います。
[中山道宿場について]
中山道とは江戸時代の五街道のひとつで、京と江戸を結んだものです。
中山道は木曽を通るので「木曽路」とも呼ばれ、参勤交代や大名や皇族のお輿入れにも盛んに利用されました。
全工程が約540kmの街道に69ヶ所の宿場が置かれ、そのうち11宿が木曽にあります。
木曽川に沿って険しい峠を越え、深い谷を抜け、山の底を縫うようにして伸びる木曽路。
遠い時代、旅籠の活気ある声が、行灯の灯火が、私たちの心にあたたかく響いてきます。
西国と東国とを結ぶ重要な街道だった中山道。
河留めのおおい大井川や浜名の渡し、桑名の渡しなどがある東海道と違い、
中山道は水の不便がほとんどないことから女性も多くこの道を歩きました。
[美濃路から木曽十一宿へ]
中山道の西の起点「京都三条大橋」を発ち、近江を経て美濃路の最東端、二十七番目の宿にあたるのが「落合宿」です。
落合宿には、美濃十六宿のうち唯一旧本陣が残されており、歴史の面影を今に伝えております。
十曲峠の近く「山中薬師」には、虫封じの薬師如来がまつられ、
十曲峠の途中には島崎藤村が揮毫した「是より北 木曽路」の碑があります。
[中山道の歴史]

木曽路の魅力は宿場にあり!
これらの制度は、本来は公用旅行者・御用荷物を優先させるための制度でしたが、街道が整備されることにより、
庶民の旅行も安楽となり、物資の流通・通信の発展、さらには文化の伝藩にとっても大きな役割を果たすこととなりました。
道筋は必ずしも一致していませんが、古代の東山道が中山道の基本となっています。
中山道は、日本橋から北武蔵・上野国・信濃国・美濃国と諸国を通過した後、近江国草津宿で東海道と合流、京都に至ります。
古くは、信濃国木曽を通るため木曾街道、あるいは日本の中間の道というということで中仙道とも記されましたが、
江戸幕府は享保元年(1716)、中山道として名称を統一することとしました。
東海道と中山道はともに江戸と京都を結ぶ街道ですが、江戸時代には東海道の方が交通量も多く、宿駅も大規模でした。
東海道の53宿、126里余に対し、中山道は67宿、139里と距離も長く、
さらに木曽路をはじめとする山道や峠道が多いため、人馬の往来や継立が困難でした。
このため、参勤交代における中山道の利用は、東海道に比べて約四分の一程度でした。
しかし、将軍家に献上する宇治茶を運ぶためのお茶壺道中や、
和宮の将軍家お輿入れなど姫宮方の通行には中山道が利用されました。

これが木曽路十一宿場!!
木曽路 十一宿場!規模の大きな宿場は奈良井宿!
[中山道 木曽路 十一宿場]
「1. 贄川宿 ‐にえかわじゅく‐」
贄川宿は奈良井宿までの距離が1里31町、宿の延長が4町6間。
文献などから16世紀頃より宿場として利用されていたと考えられます。
古くは贄川宿から小野を経て下諏訪に至る街道の宿として、さらに塩尻峠の開通により、
贄川から本山、塩尻を経て諏訪に至る中山道の宿駅として整備されてきました。
また、贄川宿には木曽福島関所の副関として幕府から指定された
贄川番所が置かれ、明治2年(1869)に関所が廃止されるまで続きました。
「2. 奈良井宿 ‐ならいじゅく‐」

奈良井宿は日本一長い宿場町!
奈良井宿は、江戸へ64里22町、贄川宿へ1里31町、薮原宿へ1里13町、
宿の延長は8町5間と贄川宿のほぼ2倍の長さもあり、規模の大きな宿場といえます。
宿の成立は文献に「天文元年(1532)、木曽義在奈良井に専念寺を建つ。
同2年、義在木曽に宿駅を定む」とあることから、16世紀中頃には既に宿の役割を果たしていたと考えられます。
慶長6年(1601)の江戸幕府による宿駅制定にともない近世の奈良井宿として整備されました。
「3. 薮原宿 ‐やぶはらじゅく‐」
薮原宿は宮ノ越宿まで1里33町で、宿の延長は5町25間。戦国時代に木曽義昌が木曽11宿を定めたころより宿として利用されていました。
その後、慶長6年(1601)に中山道宿駅が制定され、薮原宿も中山道の宿駅として指定され整備が進められました。
また、薮原宿は高山へ向かう飛騨街道奈川道の分岐点としても賑わいました。
「4. 宮ノ越宿 ‐みやのこしじゅく‐」
宮ノ越宿は福島宿まで2里28町30間、宿の延長は4町34間。
慶長6年(1601)中山道宿駅が制定されたときに中山道69駅の一つとして指定されました。
宮ノ越宿のはずれの神谷橋は、権兵衛峠を経て伊那へ抜ける権兵衛街道との分岐点にあたります。
宿内には防火用高塀や、宿場用水も整備されていました。
「5. 福島宿 ‐ふくしまじゅく‐」

これが木曽福島で四大関所!!
福島宿は上松宿まで2里14町40間、宿の延長は3町55間。
永禄年間には宿として利用されていたと思われます。
戦国時代には領主木曽氏の城下町として、江戸時代には木曽代官山村氏の陣屋町として栄えました。
また四大関所の一つ福島関所が設けられたため、規模の大きい宿場として発展していました。
「6. 上松宿 ‐あげまつじゅく‐」
上松宿の延長は5町31間。上松宿から次の須原宿までは3里9町と、木曽路の中では一番長い宿間となっています。
上松宿も他の木曽の宿駅と同様に16世紀に成立し、その後慶長6年(1601)に中山道宿駅として指定されています。
上松宿は昔から木曽ヒノキの集散地として栄えてきた宿場町です。
「7. 須原宿 ‐すはらじゅく‐」
須原宿から野尻宿までは1里24町、宿の延長は4町35間。問屋二軒・本陣一軒・脇本陣一軒・旅籠三十五軒の平均的な宿場でした。
宿のはじまりは戦国時代で、正徳年間に洪水の被害をうけ、享保2年(1717)に現在地へ移転しました。
中山道の中では最も新しい年代に建設された宿駅です。
宿の入口は鍵型になっており、宿の中央を用水路が通っています。
清水が湧く宿場町として軒先には丸太をくりぬいた水船が置かれ、野菜や果物を浮かべる情緒豊かな光景が昔を今に伝えています。
「8. 野尻宿 ‐のじりじゅく‐」
野尻宿は江戸から77里47間、次の三留野宿へは2里18町、宿の延長は6町5尺。
他の宿同様慶長6年(1601)年に中山道宿駅が制定された際に、宿として指定されました。
木曽十一宿の中で奈良井宿に次ぐ長さを誇る野尻宿。
外敵を防ぐために所々狭く曲がりくねった街並みが特徴で「七曲り」と呼ばれています。
「9. 三留野宿 ‐みどのじゅく‐」
三留野宿は江戸から79里27町、妻籠宿へは1里18町、宿の延長は約2町。
宿のはじまりに関する資料が残っていませんが、他の宿とほぼ同じ時期に成立したものと思われます。
三留野宿は、かつては妻籠宿と並んで栄えていましたが、宝永元年(1704)の
大火を含め合計4度の火災にあい、その都度宿のほとんどを失ってきました。
近世には、和宮や明治天皇をはじめ正岡子規や斉藤茂吉なども宿泊した記録が残っています。
「10. 妻籠宿 ‐つまごじゅく‐」

これが妻籠宿で、宿内は問屋2・本陣1・脇本陣1・旅籠31となっていました!
妻籠宿から馬籠宿まで2里、宿の延長は2町30間。宿内は問屋2・本陣1・脇本陣1・旅籠31となっていました。
妻籠は文献によると中世から宿として利用され、木曽路から飯田へ抜ける追分になっていました。
さらに慶長6年(1601)、徳川幕府による中山道宿駅制定の折には妻籠宿として指定されました。
「11. 馬籠宿 ‐まごめじゅく‐」
馬籠宿から落合まで1里5町、町並みの延長は3町33間。家数69で問屋2・本陣1・脇本陣1・旅籠18となっていました。
馬籠宿は木曽の入口として、また戦国時代にも馬籠・妻籠には城が築かれたことから、宿としての集落は古くからあったと思われます。
その後慶長6年には、幕府が宿駅に認定し、馬籠宿として整備されました。

奈良井宿は日本一長くて見どころ満載の宿場町!!
木曽福島は、東海道の箱根、日光街道の栗橋などと並ぶ四大関所!奈良井宿は日本一長くて見どころ満載の宿場町!
[江戸時代のメイン文化ルート・ 中山道の木曽福島。奈良井宿、1泊2日ぶらぶら旅【長野】]
今も受け継がれている日本文化のルーツがたくさん生まれた江戸時代。
そのひとつに、お伊勢参りや富士講、四国四十八か所巡礼など、空前の旅行ブームがありました。
なぜ人々は旅に出かけたのか――。
その理由の第一には信仰があげられるのですが、江戸幕府が諸藩に義務づけた参勤交代によって
東海道や中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道の五街道をはじめとしたインフラが全国に整備されたことも見逃せません。
「1泊2日で満喫!中山道の懐かしさたっぷりの宿場町」
江戸の旅行ブームを生み出したのが街道だと考えると、街道歩きこそニッポンの旅の原点!
そこで、江戸時代の風情が今も色濃く残る中山道のなかでも、江戸と京の
中間地点として栄えた「木曽福島」と「奈良井宿」へ訪れてみました。(取材時期:2018年4月)
「1日目、関所の町「木曽福島」で漆器と蕎麦に感動!」
JR中央本線の特急で「木曽福島駅」に着いたのはお昼前。
まずは腹ごしらえに駅前の食堂に入ってみたら、高台に位置していることから、市街地を見下ろすことができる絶好のロケーション!
木曽っぽい味を求めて山菜そばと五平餅(ごへいもち)をいただいたら、旅の気分もたちまち盛り上がってきました。
「福島関所跡や重森三玲の日本一広い石庭を散策」
中山道の関所が設けられていた木曽福島は、東海道の箱根、日光街道の栗橋などと並ぶ四大関所のひとつに数えられ、行きかう人で栄えた宿場町。
その様子は風景版画シリーズで人気を博した浮世絵師・歌川広重の木曽海道シリーズにも取り上げられています。
「木曽漆器発祥の地で見つけた“使える”漆器」
木曽福島は「木曾漆器」の発祥の地でもあって、今も大店が残っています。
江戸時代の人々の生活に欠かすことのできなかった生活工芸は、ナチュラルでシンプルな風合いで、軽くて使いやすいことから今も引く手あまたです。
「素朴な味わいで、何とも愛らしい、木曽福島スイーツ」
長野県でも屈指の蕎麦の産地として知られる開田高原をひかえる木曽福島は、知る人ぞ知る蕎麦どころ。
そういえば、駅前の食堂の蕎麦が思いの外うまかったのは、この旅のプチ収穫。
蕎麦は甘味にも使われていて、お菓子司「芳香堂」の「そば饅頭」はこの地を代表する銘菓。

奈良井宿の手打ちそば!
ほかにも、お持たせ用から日常使い用まで、かわいいスイーツが目白押し!
写真からお気づきの方もいるかと思いますが、この日は途中から雨がそぼ降り、雨足は強くなる一方。
日が暮れるころには土砂降りになり、晩飯はどうしようかとインターネットで検索したら、比較的近くに木曾牛のステーキで有名な洋食屋があるという情報をゲット。
これがことのほか美味くて、値段はめちゃめちゃリーズナブル。
大満足のうちに初日を終了しました。
「2日目、これぞ江戸の宿場町! “映え”の町「奈良井宿」」
昨夜からの雨は一向に収まる気配がなく、水害が心配されるほどの状況に…。
そんな逆境にもめげることなく、この日は木曽福島駅からJR中央本線に乗って奈良井宿へ向かいました。
車中には意外にもトレッキング仕様の外国人の姿が目立ちます。後で知ったことですが、彼らの目的地は木曽駒ケ岳。
そのおかげで奈良井宿にもインバウンド客が急増中だとか。
日本人にとっても奈良井宿の風情は格別なのですから、外国の人に注目されるのは当然かもしれません。
「奈良井宿駅に着いたらまず、中山道の名所・木曾の大橋へ」
さて、奈良井宿に降り立っても雨が止む気配はなく、駅の近くにある一大名所「木曾の大橋」も雨でしっとり。
ちなみにこの太鼓橋は総檜造り。

木材は水に濡れると本来の香りが立つため、あたりには檜の芳香が漂っていて、初めて雨に感謝。
「奈良井宿」は日本一長くて見どころ満載の宿場町」
その昔、「奈良井千軒」と呼ばれるほど繁盛した中山道の奈良井宿。
その距離は中山道沿いに江戸側のJR奈良井駅の付近から
京都側が鳥居峠入り口の最後に位置する「鎮神社」まで南北約1㎞。
雨ニモ負ケズ、町に繰り出すも、歩いても歩いても雨が収まる気配なし。
天気のためか開いていない店も多く、とりあえず行ったり来たりうろうろ、うろうろ。
昔ながらの店や宿が約1㎞にわたって連なる宿場町は、江戸時代もかくやと思わせる雰囲気です。
よく見ていくと、面白いものがいっぱいあって、雨宿りがてら入った喫茶店のレベルも高い。
先祖代々、旅人をもてなしてきた奈良井宿の人々のもてなしが温かく、
江戸時代と現代が絶妙に調和した街並みは、“インスタ映え”も抜群!
「木曾でしか味わえない不思議な漬物「すんき」」
「すんき」は、木曾地方で昔からつくられてきた伝統的な漬物なのですが、
食塩や砂糖は一切使用せず、植物由来の乳酸菌のみで発酵させたという変わり種。
さわやかな酸味が特徴で、料理にプラスしていただくと絶妙なアクセントになります。
冬から初春までしか食べられないものだそうで、何とか間に合いました。
「知る人ぞ知る逸品、伝統工芸「お六櫛」」
樹齢200~300年の高級天然材・みねばりを使用した「お六櫛」は、江戸時代中期から続く木曾の伝統工芸。
その名は御嶽山信仰にまつわる「六根清浄」や、櫛で頭皮をマッサージしたら
頭痛が治ったという女性・お六にちなむと伝わります。
「木曾路がはぐくんだ郷土の美味「五平餅&きびもち」」
雨さえ降ってなければ、旅行者がたくさん行き交っていたはずの奈良井宿。
人が少なかったおかげで、あっちぶらぶら、こっちぶらぶら、思いのままに歩いていたら、
ひと息つくのに最適なおやつを取り扱う店がそこかしこにあることに気づきました。
観光も買い物も食べ歩きも充実している奈良井宿。古き宿場町は、街歩きを楽しむための条件がそろった、最先端の観光地でもありました。
「「奈良井宿」から東京への帰路は高速バスでスイスイ」
奈良井宿を堪能しつくしたころに、ようやく雨も上がって青空が!
と思ったのも束の間。
そろそろ旅も終わりの時間です。
帰路もJRを使用するつもりでいたのですが、途中立ち寄った観光案内所で、
木曽福島・奈良井宿から新宿駅まで高速バスが1日2往復していることを知って、夕方の便をさっそく予約!
実はいろいろ手に入れ、荷物が多くなっていたし、かなり歩き続けたから疲労も相当で、
乗り換えが少ない高速バスは好都合!!
おかげで、木曽路旅を無事終えることができたのはもちろんのこと、
高速バスを利用すればもっと簡単に訪れることがわかって、実りの多い1泊2日となりました。
和楽 記事より。


上がアルベルゴ・ディフィーゾで!下が奈良井千軒でここを分散型ホテルにしたらどうだろう!!
木曽路一番の賑わいをみせた宿場町!ここをイタリアの分散型ホテル「アルベルゴ・ディフィーゾ」にしたい!
今日のまとめ!
木曽路が魅力に満ちているのは、中山道に佇む宿場の魅力です!
中でも妻籠宿や馬籠宿と奈良井宿がその代表格です。
通り過ぎてゆく通りの石畳の美しさ旅人が踏みしめた温もりを感じます。
中山道は江戸時代の五街道の一つで京と江戸を結んだものですが、中山道は木曽を通るので「木曽路」と呼ばれています。
京と江戸の全工程が約540kmでその街道に69ヶ所の宿場が置かれ、そのうち11宿が木曽にあります。奈良井宿はその規模や保存状態からして一見の価値ありです。
奈良井宿について!!
「奈良井千軒」とも呼ばれ、かつて中山道における木曽路一番の賑わいをみせた宿場町。
木曽路最北端の贄川宿にも近い。
広い土間や千本格子の美しい町並みは延長約1kmにもおよぶ。
広い土間や千本格子の美しい町並みは延長約1kmにもおよぶ。
そば屋、茶房、酒屋、土産屋、民宿などと住居が混在。
そこで生活する人の息吹も感じられる中に、徹底した町作りがされている。
時代を超えた街道の賑わいに続く千本格子!
木曽路の魅力は宿場にあります!
石畳、千本格子、苔むす石仏や大樹。宿場の名残を見つめながら昔に帰る!
私はこの木曽路でイタリアのアルベルゴ・ディフィーゾの日本版として、伊根町の舟屋群に次いで、

これがアルベルゴ・ディフィーゾの作り方!!
ここ木曽路も奈良井宿や妻籠、馬籠のいずれかの空家を改装して会員制の分散型ホテルを提案します!
石畳、千本格子、苔むす石仏や大樹。宿場の名残を見つめながら昔に帰り、
宿屋を利用する体験が「アルベルゴ・ディフィーゾ」にピッタリだと思っています。
会員制であればSNSで配信して販売できますので、木曽路の賑わいのある宿場町であれば、密かに採算的に十分可能だと思っています!
伊根町の舟屋群に引けを取らない、人気の木曽路だと思っています!
これ「木曽路」を取り上げた狙いはここにあったのです!!
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