これが天恩山五百羅漢時大雄殿です。
天恩山五百羅漢寺!羅漢堂に安置されている一人一人の教えには心打たれます!!
今日は散歩仲間の会「盛春会」の13名で目黒の五百羅漢寺と目黒不動尊でお参り。
昼食後は都立林試の森公園を散策し、その後日本一長い武蔵小山商店街のコヒー店で一休み、楽しい1日でした!
五百羅漢では本堂に収めきれない146体が羅漢堂に安置されていますが、
その一人一人の大切な教えが、心を打つものばかりで、その教えに感激しました。
本堂では釈迦如来とその弟子たちである羅漢たちが一堂に会する本堂。釈迦如来が羅漢たちに説法する光景が再現されていました。

今日の参加者はこの人たちです。植松さんが見当たりませんが?
この天恩山五百羅漢寺は1695年に建立された江戸の羅漢信仰発祥の地として由緒ある名刹です。
江戸時代を代表とする木彫蔵として東京都重要文化財に指定されている。
(現存305体)1908年に目黒に移転し、1981年に現在のお堂が完成し名実ともに「目黒のらかんさん」として蘇った。
五百羅漢寺は東京都目黒区下目黒にある寺院。宗派はかつて黄檗宗だったが現在は浄土宗系の単立。
山号は天恩山。
開基は松雲元慶、開山は鉄眼道光、本尊は釈迦如来。
300体以上の羅漢像を祀っている。

羅漢堂に設置された146体の羅漢像!
[歴史]
葛飾北斎『冨嶽三十六景』のうち「五百らかん寺さざゐ堂」
[松雲元慶による創建]
当寺の五百羅漢像は開基の松雲元慶(1648 – 1710)が独力で彫り上げたものである。
松雲は京都の出身で、「鉄眼版一切経」で知られる黄檗宗の僧・鉄眼道光に師事した。
松雲はある時、豊前国の羅漢寺(大分県中津市本耶馬渓町)の五百羅漢石像を見て、自らも五百羅漢の像を造ることを発願した。
貞享4年(1687年)、40歳で江戸に下向した松雲は托鉢で資金を集め、独力で五百羅漢像など536体の群像を造る。
羅漢寺の創建は元禄8年(1695年)のことで、松雲が開基、師の鉄眼が開山と位置づけられている。
当時の羅漢寺は本所五ツ目(現在の東京都江東区大島3丁目)にあった。
彫像は当初は536体あったが、近代以降、寺の衰退時に多くが失われ、羅漢像287体を含む305体が現存している。

この人は松雲羅漢!

この人が松雲元慶
創建は松雲元慶!独力で536体の群像を作る!!
[象先禅師による伽藍整備]
3代住持の象先元歴(1667 – 1749)は、羅漢寺中興の祖とされており、彼の時代に大伽藍が整備された。
象先は正徳3年(1713年)に羅漢寺住持となり、
本殿、東西羅漢堂、三匝堂(さんそうどう)などからなる大伽藍を享保11年(1726年)までに建立している。
三匝堂は江戸時代には珍しかった三層の建物で、西国三十三所、坂東三十三箇所、
秩父三十四箇所の百か寺の観音を祀ったことから「百観音」ともいい、その特異な構造から「さざえ(さざゐ)堂」とも呼ばれた。
建物内部は螺旋構造の通路がめぐり、上りの通路と下りの通路は交差せず一方通行となっていた。
三層にはバルコニーのような見晴台があった。
この建物の様子は葛飾北斎が代表作『冨嶽三十六景』の中の「五百らかん寺さざゐ堂」で描いているほか、歌川広重、北尾重政などの浮世絵師も題材にしている。
松雲元慶の造立した五百羅漢像は本殿とその左右の回廊状の東西羅漢堂に安置され、

本堂の息をのむほど圧巻な五百羅漢像!
参詣人が一方通行の通路を通ってすべての羅漢像を参拝できるよう工夫がされていた。
『江戸名所図会』などの絵画資料を見ると、参拝用の通路はゆっくり参拝する人たちのための板張りの通路と、
旅人が土足のままでも参拝できる通路とに分かれ、それぞれの通路が交差しないようになっていた。
[衰退と復興]
安政2年(1855年)の安政の大地震では東西羅漢堂が倒壊するなどの大被害を受けた。
明治以降寺は衰退し、明治20年(1887年)には本所緑町(東京都墨田区緑4丁目)に移転。
さらに明治41年(1908年)末に現在地の目黒へ再移転した。
この間、明治23年(1890年)にはチベット探検で知られる河口慧海(1866 – 1945)が当寺に住している。
その後、寺は無住となった時期もあり荒廃していたが、昭和13年(1938年)安藤妙照尼が入寺して、第二次大戦前後の困難な時代に寺を維持した。
安藤妙照尼は新橋の芸者出身で、芸者時代の名を「お鯉」といい、総理大臣桂太郎の愛妾として知られたが、後に仏門に入った。
本堂脇にある「お鯉観音」は彼女にちなむものである。
貫主日高宗敏の尽力によって五百羅漢寺の境内が整備され、近代的なビルに生まれ変わったのは昭和56年(1981年)のことである。
現住職はスタジオジブリ製作の長編アニメーション映画『コクリコ坂から』原作者にして住職の佐山哲郎の息子・佐山拓郎である。
[境内]
境内は比較的狭く、大部分が近代的なビルになっている。
公道に面して鉄筋コンクリート3階建てのビルが建ち、この中に寺務所、書院、聖宝殿(しょうほうでん)などのほか、目黒霊廟(一般向けの屋内墓所)がある。
聖宝殿には寺宝や歴史資料が展示されている。
屋上には安永3年(1774年)銘の梵鐘(平和の鐘)がある。
上記ビルの右脇に本堂へ上る階段がある。
階段右手には飲食店の「らかん亭」と「らかん茶屋」があり、階段を上った先の右側には「コ」の字形平面の羅漢堂、その先に本堂がある。
本堂には本尊釈迦三尊像を中心に羅漢像などが安置され、残りの羅漢像や悪夢を食うとされる獏王(白沢)の像などは羅漢堂に安置されている。
以上ウィキペディア

五百羅漢の正面が大雄殿です!
お釈迦様が亡くなられた時に集まった500人のお弟子さんが五百羅漢のモデル!!!
どうぞゆっくりと「目黒のらかんさん」にお参りしてください。
境内のご案内
「本 堂」 本尊釈迦如来とその弟子であるらかんさんが一堂に会した本堂。
お釈迦さまが説法している光景が再現されています。
お釈迦さまのすずやかな声に、しばし耳を傾けてください。
「羅 漢 堂」 元禄時代に松雲元慶禅師が江戸の町を托鉢して集めた浄財をもとに十数年の歳月をかけて彫りあげた羅漢像が居並ぶ羅漢堂。
本堂に納めきれない146体のらかんさんが安置されています。
「再起地蔵尊」 再起への希望の灯。失意の人の再起の願いを叶えてくれるお地蔵さま。
身丈3.5メートル。おだやかな顔でお参りの人に気力と勇気を与えてくれます。
「碑のこみち」 羅漢寺の尼僧「お鯉観音」が祀られ、他にも「さくら隊原爆殉難碑」「興安友愛の碑」を始め、
俳人「高浜虚子の句碑」「平山蘆江の歌碑」「包魂の碑」などがあります。
[聖 宝 殿] 当時の歴史を物語る史料 さくら隊原爆殉難者の写真などが展示されています。
江戸時代末期の絵師住吉内記画伯が2年間毎日描き続けた羅漢像の絵が保存されています。
浮世絵、元禄当時の羅漢像の『造立寄進者簿』は、五百羅漢寺が江戸の人びとに慕われていた頃をしのばせます。
魚ばん(かいばん)は、これをたたいて儀式の刻限を知らせたものです。
現在の木魚の原形です。)また、お守りなどを販売している売店もこちらにあります。
[らかんさんとは] らかんさんは お釈迦さまのお弟子さんで実在した人々です。
お釈迦さまの説法を実際に聴き、教えのとおりに修行に励んで煩悩を払い聖者になったのです。
修行を積んで煩悩を払い、真実の智慧を完成した聖者をインドで「アラハン」と讃えました。
仏教が中国に伝わり「アラハン」の発音をそのまま生かして「阿羅漢」と表現。
使い慣れるうちに「阿」がとれて「羅漢」と呼ばれるようになったのです。
お釈迦さまが亡くなられたときに集まった500人のお弟子さんたちが「五百羅漢」のモデルであるといわれています。
「らかんさん」は、後世の人々にお釈迦さまの教えを伝えていきました。
「らかんさん」が存在しなかったら私たちはお釈迦さまの教えを知ることができなかったでしょう。

目黒不動尊龍泉寺の前で記念撮影!この写真は私が撮っています!
目黒不動尊・龍泉寺!目黒の杜・「獨鈷の瀧」!関東最古の不動霊場!災厄難を除ける不動尊!
瀧泉寺は、東京都目黒区下目黒にある、天台宗の寺院。山号は泰叡山。
不動明王を本尊とし、一般には目黒不動の通称で呼ばれる。江戸三大不動・江戸五色不動の一つ。
江戸三十三箇所第33番札所。関東三十六不動第18番。「目黒」の地名はこの目黒不動に由来する、とする説もある。
青木昆陽の墓があることでも知られる。 以上はウィキペディア
関東三十六不動霊場札所・江戸三十三観音霊場結願札所・山手七福神札所『目黒不動尊ご詠歌』
清らけき 目黒の杜の獨鈷瀧 災厄難を除ける不動尊 『聖観世音ご詠歌』
身と心 願ひみちたる不動瀧 目黒の杜におはす観音目黒不動尊は、天台座主第三祖慈覚大師圓仁が開かれた関東最古の不動霊場です。
日本最古の土板(縄文時代)が発掘された境内は、往古より霊域であります。
大同三年、十五歳の慈覚大師は、伝教大師最澄のもとへ赴く途上、当地に立寄られ、霊夢を見ました。
面色青黒く右手に降魔の剣を提げ左手に縛の縄を持つ誠に恐ろしい形相の神人が枕上に現れて
『我この地に迹を垂れ魔を伏し国を鎮めんと思ふなり。
来つて我を渇仰せん者には諸々の願ひを成就させん。』と告げられました。
夢覚めた後その尊容を自ら彫刻されたのが、御本尊目黒不動明王です。
堂宇建立を決意された大師が、法具の獨鈷を投じると、そこに泉が湧出。
「獨鈷の瀧」と名づけられたこの霊泉に因んで、当山を「瀧泉寺」と号されました。
貞観二年には清和天皇より「泰叡」の勅額を賜り、爾来「泰叡山」と称します。
寛永年間には、徳川家光公の帰依を受け、堂塔伽藍が復興されました。

この写真は全員13名が揃っています!
目黒で鷹狩りをした際、愛鷹が行方しれずになり、三代将軍は自ら目黒不動尊御宝前に額づき、祈願。
すると忽ち鷹が本堂前の松樹(鷹居の松)に飛び帰りました。
この霊験を目の当りにした家光公は瀧泉寺を篤く尊信することとなり、
大願成就の報恩に、諸堂末寺等併せて五十三棟に及ぶ大伽藍を造立します。
歴代の将軍が折々に参詣する宏壮な堂塔は『目黒御殿』と称され、
庶民も列を成して詣でる江戸随一の名所となりました。
青史に名をとどめる傑士が多く参堂し、
さつまいもの栽培を広めた「甘藷先生」こと蘭学者・青木昆陽が当山の墓地に眠り、
毎年10月28日には先生の遺徳を偲ぶ『甘藷まつり』が開かれます。
二宮尊徳は報徳仕法の成功を祈誓し、西郷隆盛は主君島津斉彬公の当病平癒のために日参。
東郷元師は日本海海戦の勝利を立願しました。
その所願は円満成就し、いよいよ不動尊信仰は隆昌を極めました。
開創以来千二百餘年を閲する今日も変ることなく、
鎮護国家並びに萬民豊楽を祈念して、護摩供が毎日厳修され、
毎月28日の目黒不動尊大縁日には、門前や境内に露店が並び、多くの参拝者が訪れます。

林試の森公園は多くの樹木に囲まれていて素晴らしかった!
都立林試の森公園!巨樹の森で森林浴!プラタナスは巨大だった!そして武蔵小山商店街!
林試の森公園(りんしのもりこうえん)は、
東京都目黒区下目黒と品川区小山台にまたがり所在する都立公園。
[概要] 西ケ原(現・東京都北区)にあった農商務省林野整理局樹木試験所(1878年(明治11年)設立)から、
目黒川支流の羅漢寺川谷戸南側の北斜面の現在の地に植樹を移し、
1900年(明治33年)6月に「目黒試験苗圃」を設置した。
当時の広さは約45,000坪であった。
1905年(明治38年)に林野庁「林業試験所」、1910年(明治43年)に「林業試験場」と名称を変えた。

林試の森公園内の樹木に番号をつけた案内図がありました。
また、この試験場の周辺に明治から大正にかけて多くの研究所が置かれた。
戦後にかけても、北里研究所目黒支所、津村研究所、石炭綜合研究所、国立予防衛生研究所など、18の研究所が置かれていたことが見える。
試験場は1978年(昭和53年)につくば市に移転(現・独立行政法人森林総合研究所)し、
跡地は東京都に払い下げられて公園として整備、1989年(平成元年)6月1日に「都立林試の森公園」として開園した。
開園面積は120,762平米(約36,000坪)である。
[園内] 林業試験場当時の樹木がそのまま残されており、

ここは林業研究発祥の地だそうです!
都内でも屈指のケヤキ、クスノキ、プラタナス、ポプラ、スズカケノキなどの巨木がある。
その他、カイノキ、トチュウ、シナユリノキ、チンタオトゲナシニセアカシア、
ベニカエデ、ヒマラヤゴヨウ、レバノンスギ等の外国産樹木やアベマキ、ハナガガシ、ニオイドロ、
シマサルスベリ、ヨコグラノキ、ナナミノキ等の珍しい木などもあり解説のプレートもつけられている。
園内で最も太い木は幹周が3.82mのケヤキ。
最も高い木は高さ35.5mのポプラ。

この素晴らしい樹木を見上げるだけで圧倒されます!
園内のアベマキの古木にはミズイロオナガシジミが発生する。
都区内での自生は珍しい。
園内中央を南北に小さい谷地形が走る。
これは、かつて小山台を流れていた品川用水(玉川上水の分水)を羅漢寺川に通水していた名残であり、当時を偲ばせる水車が復元されている。
大木の揃った森の他、芝生広場、デイキャンプ施設、夏期に子供が入れるじゃぶじゃぶ池、
西側には野球やサッカーの練習(要申込で試合は不可)にも使用できるグラウンドも整備されている。
毎朝、朝早くからジョギング、ウォーキング、ラジオ体操など運動をする人が多い。 ウイキペディアより。
森林浴の後は海老亭のお蕎麦と天丼など各自メイメイが楽しい昼食でした。
そのあと日本一長い武蔵小山商店街を散策、上島コヒー店で一休み、みなさま高齢にも関わらず、長時間お疲れ様でした!

幹事さんの企画は素晴らしかった!今年もおかげで頑張れます!
幹事さん素晴らしい企画をありがとうございました!五百羅漢・林試の森公園共に素晴らしかった!
幹事さん楽しい時間をありがとう!!
今日の企画をされた吉越さんと上條さんの両幹事に「五百羅漢と目黒不動尊龍泉寺では大変参考になるお勉強とお参りができ、
森林公園では樹木の知識と森林浴ができ」大変お世話になりありがとうございました。
今年一年の楽しい企画お待ちしています!
これがあるから、これが楽しみだから、みなさま日々の散歩を頑張れるのだと感謝に絶えません!!
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