図面化できぬ曲面の美を追求!手で考える柳宗理の工業デザイン!機械時代で温かく人間味あるインダストリアルデザインを花開!

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柳宗理「ステンレス・カトラリー」

図面化できぬ曲面の美を追求!手で考える柳宗理の工業デザイン!機械時代で温かく人間味あるインダストリアルデザインを花開!

 

戦後の日本を代表する工業デザイナーの柳宗理=1915~2011。

1920年代に「民藝運動」を指導した思想家、

柳宗悦の長男に生まれ、青春時代にル・コルビジェらの欧州のモダニズムを吸収した。

太平洋戦争の戦地フィリピンから帰国後、

機械時代における温かく人間味あるインダストリアルデザインを花開かせた。

 

 

 

バタフライ・スツール!曲げることで合板の強度が増すことにも気づき、羽ばたくチョウのような形態の原型!

負傷した脚用の添え木から発想!バタフライ・スツール!曲げることで合板の強度が増すことにも気づき、羽ばたくチョウのような形態の原型!

 

カタカナの「フ」の合板2枚を2個のボルトで背中合わせに留める。

脚部が開かないように「ステー」と呼ばれる金属棒で繋げば、できあがり。

「バタフライ・スツール」はたったこれだけの部品で成り立っている。

1956年に発売された宗理の代表作であり、2年後にニューヨーク

近代美術館=MOMA のパーマネントコレクションに加えられた名品だ。

発想のきっかけの一つは、米国の工業デザイナー、チャールズ・イームズが

第二次世界大戦中、負傷兵のために作った「レッグ・スプリント」。

曲面の整形合板の板で負傷した足を支える添木で、イームズはこのときの

技術を座面に応用して後の「イームズ・チェア」をうんだ。

軽くて丈夫なレッグ・スプリントは米海軍も採用。

米国視察時に実物を見せられた宗理は、その機能性と技術に感心して帰国する。

「しかし、いざ日本に帰ってみると、私は何を作って良いかわかりませんでした」

=「柳宗理 エッセイ」所収、「バタフライ・スツール」。

具体的なイメージは何もないまま、ビニールシートを温めては

さまざまな形を手で作り遊び始めたという。

紙を切っておったりまげたりすることもあったやしい。

曲げることで合板の強度が増すことにも気づき、

羽ばたくチョウのような形態の原型ができ上がってゆく。

しかし、こんな複雑な曲面を、どうやって木で作ろうというのか。

試作できる工場を探すも、見つからない。

仙台にあった産業工芸試験所で整形合板を研究していた

技術者の乾三郎氏だけが、見たこともない造形を面白がった。

試行錯誤の末出来上がったスツールは国内で発表後、

57年のイタリア国際デザイン店ミラノ・トリエンナーレに出品。

世界的な名声を得ると同時に、量産化の道が開けた。

「量産」とはいっても、バタフライ・スツールの製造工程は手作りに近い。

宗理や乾氏とともにスツールを実現させ、今も製造を続ける山形県天童市の

家具メーカー「天童木工」で、工場を見せてもらった。

スツールの芯となるのはブナ材だ。山形県ブナの天然材で日本一の面積を誇る。

「粘りがあると現場では言います。

固いけれど繊維が緻密で曲げに強い」と企画部長の森山馨=かおる さんは話す。

丸太を巨大な鉛筆削りのような機械にかけ、暑さ1mmにスライス。

この芯材7枚と、暑さ0.3mmのカエデなどの表面材に接着剤を塗り、重ね合わせて専用の金型にかける。

セッ氏90~100度のスチームで「フ」の字にギュッとプレス。

出来上がったときに座面の木目が左右対象になるよう、

丸太からスライスした順に表面材に番号をふって管理している。

プレスの後、バタフライの羽の複雑な曲面をカッターで切り出し、モターで回る紙やすりに当てて研磨。

髪の毛一本の狂いがあってもスツールがガタつくという。

ベテラン職人がつききりで機械を操りながら、それぞれの工程をこなす。

天童木工では「既製品以外の特注品やオーダー品が多く、ライン生産ができない」と森山さんは説明する。

既製品の数は色違いも含めるとおよそ780点。

ところが、注文を受け付けてくるこれ以外の製品が、売り上げの6~7割を占めるのだという。

木という素材と職人の技術を活かし、デザイナーの斬新なアイデアを実現、

多様な価値観やライフスタイルに合った家具を世に送り出す――。

同社の挑戦を後押ししたのが、戦後間もない47年に本格的に取り入れた整形合板だった。

1mm程度の薄い板を重ねて型に入れ、圧力と熱を加える。

むく材では難しい曲面などの表現が可能となり、量産することで価格も抑えられるようになった。

初期のバタフライ・スツールは畳を傷つけないよう脚の下部を細く平らに削った。

洋式のライフスタイルが定着するにつれ、脚部の中央をえぐってへこませるようになる。

国内では東京国立近代美術館の展示室などに置かれており、建築家やデザイナーなどにも愛用者が多い。

京都工芸繊維大学教授の松隈洋さんはある時、ル・コルビジェのスケッチ集に収録された

「グロピウス邸」のインテリアの素描に、このスツールが描きこまれているのに気がついた

ドイツ出身のグロピウスはバウハウスの創始者で、

ナチスの手に落ちた母国から亡命後、米ハーバード大で教えた建築家だ。

ル・コルビジェに心酔する宗理に素描を見せると、とても感激したそうだ。

 

 

1970年代の柳工業デザイン研究会!


石こう模型によるぽってりした造型!工業化社会を前提にしながらも、あくまで生活の中で使われる優れたデザインを人間の視点で作る!!

 

東京JR四谷駅に程近い一角に、建築家の前川国男が54年に設計した古いビルがある。

前川が事務所を構えたコンクリート造のこの建物の地下室が、宗理の創作の現場だった。

宗理は学生時代からフランスの建築家ル・コルビジェの思想に共感し、

弟子の前川が翻訳した著書「今日の装飾芸術」で前川の名前を知った。

装飾のないところに現代の真の装飾がある――-。

モダニズムの美を唱えた同書は「若い頃の私の血潮を湧きたせた」と期している。

ル・コルビジェの事務所で前川の同僚だったデザイナーのシャルロット・ペリアンが

40年に商工省の招きで来日すると、助手として日本各地の工芸産地への視察に同行。

前川やペリニアンとの交流を通じて、欧州のモダニズムを血肉化していった。

すり減ったコンクリートの階段を下りる。

5月下旬、弟子のデザイナーらが今も活動を続ける柳工業デザイン研究所を訪れた。

蛍光灯を嫌った宗理がデザインした和紙の照明がつり下がり、温かい光が部屋を包む。

机や棚の上に模型や世界各地の民芸品。「ろくろ」は、入り口の脇の小さなキッチンの横にあった。

スプーンや鍋ひとつ、巨大な橋や高速道路の防音壁をデザインする時も、

宗理は図面を引く前に手で模型をつくることを欠かさなかった。

紙やビニール、ワイヤー――。

ろくろは石工模型をつくるのに愛用した。

「手や指を使うと、目よりもモノがよく見えたのではないか」。

長男で研究会の理事長を務める柳新一さんが教えてくれた。

「視覚だけだと、これくらいでいいや、とやりがち。

カーブや感触を感じながら時間をかけて模型をつくると、

見えなかったところが見えてくるのだと思う」

ろくろの上にブリキの筒を立てて泥状の石こうを流し込む。

固まったらブリキをのぞき、ろくろを回しながらのみで成形する。

塊を削り出しつつ、ポットや楕円形の鍋の形を変えることもあった。

機械時代のプロダクトの美を追求した宗理が手で感じ取ろうとしたのは一体何だったのだろう。

「住宅は住むための機械である」とは・ル・コルビジェが残した有名な言葉だ。

モダニズムの機能性を説いているが、宗理は、のちの建築家たちがその本来の意味を捉え損ねたとみていた。

装飾さえはぎ取ればいいとばかりに「冷たい合理主義に走った」と批判している。

着目すべきは「住む」の一語。それは「生理的動物であると同時に心理的動物」である人間の行為だ。

故に工業デザイナーの役割は、機能性や経済性を成り立たせつつ、「

人間生活に適するように美しく仕上げるというのが最大の使命」と

尊敬する師の言葉をとらえ直したのだ

(「柳宗理 エッセイ」」所収「インダストリアルデザインの造形的訓練」)。

「彼のプロダクトは実直の積み重ねでできている」と指摘するのは

日本デザインコミティー事務局長の土田まりこさん。

デザイナーや建築家らで構成する同コミッティーは、銀座の百貨店・松屋銀座の7階にある

「デザインコレクション」で展示販売をするための優れた生活用品をセレクトしている。

宗理のバタフライ・スツールやカトラリーはここでの「不動の定番」だ。

「石こう模型をもとに出来上がったデザインは、洗練されているというよりは、

ぼってりした造形が魅力」と土田さんは話す。

「機能性だけではただの便利グッズと変わらない」が、

ロングセラーのデザインはおのずと品格を備えるという。

「たとえばバタフライ・スツールは、2枚の板をビス留めしただけと潔い=いさぎよい。

媚びて居ないところが長い人気の秘密でしょうね」

「昼時になると、地下からいい匂いがしてきてね」。

80年から2000年まで四谷の前川事務所で働いた松隈さんは当時を振り返る。

柳工業デザイン研究所では、昼のまかない献立作り、買い物、スタッフが当番でこなした。

「材料費は一人500円、250円は給料から引かれた。

やりくりして買った牛タンを2日がかりでシチューにした」

と所員だったデザイナーの磯谷慶子は懐かしむ。

鍋もスプーンも実際に使い勝手を確かめていたのだろう。

宗理の愛車ジープの調子が悪い時には所員が修理した。

事務所で自電車を買おうと提案すると、宗理は「つくったら」と返したという。

「工業化社会を前提にしながらも、あくまで生活の中で使われる優れたデザインを

人間の視点で作ることが、現代のモダニズムと考えたのではないか」と松隈さんは見る。   

窪田直子  日経新聞。

 

 

柳宗理「松村硬質陶器」!


手で考える・柳宗理の工業デザイン・中!「読み手知らず」機能性抜群!「模型よりも形」材料の質も重視!

 

柳宗理は大正初期のインテリ家庭に生まれた。

父は東京帝国大学=元・東京大学 哲学科を出た「民藝運動の」創始者、宗悦。

母の兼子は東京音楽学校=現・東京芸術大学 で学んだ声楽家だ。

家の書斎は洋書や漢書を含む膨大な書物で埋まり、居室にはロダンの彫刻やセザンヌの絵、日本各地の民芸品。

英国の陶芸家バーナード・リーチが裏庭に窯構え、小説家の志賀直哉、

画家の有島生馬や陶芸家の浜田庄司らが出入りするような家である。

ちなみに2歳年下の弟、宗玄は後にジョルジュ・ルオー研究で知られる美術史家、

ひとまわり年下の弟、宗民は草花のエッセイで親しまれた園芸家となった。

東京美術学校=現・東京芸術大学 を卒業後の1942年、坂倉準三研究所に入り、

翌43年8月に陸軍報道部宣伝班員としてフィリピンに渡る。

坂倉の研究所がマニラの日本文化会館建設に協力することになったためだ。

宗理はそれから約3年間のことをほとんど何も語っていない。

日本の敗戦後、ジャングルを逃げ回った体験をわずかに記しているだけだ。

私淑する建築家、ル・コルビジェのフランス語の大著「輝ける都市」を後生大事に背負って逃げたが、

洞窟に潜んでいたある時、「もうこれまで」と穴を掘って埋めさったのだという。

203年、同じく坂倉の弟子で同地に送られた西澤文隆の遺稿集「フィリピンの日々」が刊行された。

庭園を研究した建築家が見た南国の花のスケッチ、高床式の兵舎などの精密な図面、日記封の文書を書きつけた紙――。

編集者の一人、澤良雄さんの前文「『フィリピンの日々』解題」によると、

これらは西澤の書斎にひっそりと残され、戦後半世紀以上を経て世に出された。

米軍上陸後、部隊の仲間とともに敵やゲリラの襲撃を受けつつ、夜間の行軍、墜壕=ざんごう 

堀を繰り返し、民家からの「徹発」で飢えを凌いだことが淡々と記されている。

「文字の乱れや解読不能の部分は逃走中に描かれたことを物語っている」と澤さんは記す。 

命からがら日本に帰り、坂倉の”右腕”として活躍した西澤と異なり、

宗理は坂倉の事務所へは戻らず、デザインの道を歩んだ。

宗理は坂倉の事務所へは戻らず、デザインの道を歩んだ!

その仕事の原点とも言えるのが48年に始まった「村松硬質陶器」。

模様ひとつない真っ白なテーブルウエアのシリーズである。

戦後間もない当時、釘一本自由に手に入らず「土しかないので陶器しか造れない」

のが実態だったと、宗理は回想していることがいざ焼こうにも窯を焚くための薪も炭もない。

そこで戦争で東京湾に沈んだ艦船から石炭を引き揚げてメーカーに持参。

それさえ入手困難になると、石炭より炭化度の低い亜炭で代用した。

しかし火力が弱く、たくさんの不良品が出てしまう。

よく焼けたものを選んで三越に持ち込んだが、模様もなく「半製品だ」と取り合ってもらえない。

銀座の裏で喫茶店をやっていたフランス帰りの店主だけが

シンプルなデザインを気に入って、最初に使ってくれたそうだ。

白い陶器に模様をつけないのはなぜか。

当時よく問われた質問に対して、宗理は「機械時代と装飾」と題した77年の文章でこう答えている。

「模様というものは本来手工芸的なもので、合理的に生産される機械製品には、

技術的にそぐわない――機械生産によって造られた製品は、機械生産それ自体の美しさを持っており、

模様など全く邪魔な代物となる」(「柳宗理エッセイ」所収「機械時代と装飾」)

これからの時代のデザイナーの仕事は「模様よりも形」。

材料の質の良しあしも重要になると指摘している。

硬質陶器には改良も加えられた。底の深い初期のコーヒーカップのソーサーは、スプーンを

乗せた時カップに「カチカチあたらない」よう平たく大きくなる。

戦後の宗理が工業デザインの道を選んだ理由について、

息子の柳新一さんは「柳家の家風」を挙げる。

「武士階級の出で『公のために尽くせ』という雰囲気を保つ家だった」。

戦地から帰国した宗理は、主戦の前年、妻が亡くなったことも知らされる。

「焼け跡であぜんとしたと思う。

日本人が食べてゆくのに産業を興し、日本人の生活を良いものにしたい。

そう強く考えたのではないでしょうか」

全ては現場からアイデアの源泉に!

宗理のボウルは豪快に卵を泡立っても外に飛び散らない!!

江上料理学院学院長の江上栄子さん85 が、江上家に嫁いできた

頃の思い出を「別冊太陽 柳宗理」2013年 に寄せている。

NHK「今日の料理」などで活躍していた料理研究家の義母、

江上トミエさんは当時、宗理とともに調理用ボウルを開発している最中だった。

「丈夫で使い易く、美しいものを作ろうということで、柳さんと意見が合ったわ」。

ある日、嬉しそうに帰宅したという。

60年発売の「ステンレス・ボウル」は、大きさの違う5点セットになっている。

宗理のボウルは豪快に卵を泡立っても外に飛び散らない!「ステンレス・ボウル」は、大きさの違う5点セットになっている!

 

そこがすぼまっている小型は、調理を合わせるのに、中型は泡立て、大型は野菜を洗ったりするのに便利だ。

栄子さんによると当時日本で普及していたのは、赤い縁取りのある白い平底のホーロー製ボウル。

トミさんは泡だてをする時、特に不便を感じていた。

平らな底に泡立て器がぶつかり、思うように泡立てられなかったのだ。

トミさんが料理を勉強したフランスでは、ボウルは用途に合わせて使い分けるのが当たり前。

「日本製の使いやすいボウルが欲しい、と切に考えていたはずです」と栄子さんは記す。

宗理は、プロとしてのトミさんの助言に耳を傾けながら、

ろくろで模型をつくり、見てもらっては、また改良するという作業を繰り返した。

「宗理のボウルは豪快に卵を泡立っても外に飛び散らない。89歳の私の母も愛用しています」。

日本デザインコミッティ事務局長、土田まりこさんのこの言葉を聞いたら、

宗理もトミさんも飛び上がって喜んだことだろう。

「全ては現場に行って、人間関係づくりから始まる」。

柳工業デザイン研究会の仕事の手順を弟子のデザイナー、藤田光一さんが教えてくれた。

「職人さんと言葉を交わし、親しくなると『うちの技術のキモはここ』

『こんなこともできる』などと教えてもらえるようになる。

もの作りのアイデアもわきます」。

宗理は専門家や技術者との協議をことのほか重じた。

「デザインは一人でする物ではない。

三人よれば文殊の知恵というが、優秀な協力者であれば、何人いてもよい」

寺岡精工の「秤=はかり」も、企業と二人三脚で作り上げた昭和のベストセラーだ。

針式の秤を世界で初めて製品化した同社が、高級仕様の商品として開発した。

秤というと、機能性重視の無表情のものか、反対に豪華さを出そうと金色の装飾をつけたものしかない。

針式の秤を世界で初めて製品化した寺岡精工が、高級仕様の商品として開発した!

不満に感じた宗理は親しみを待たせるよう全体に丸みを帯びさせ、まん丸の「ユーモラスな顔」をつけた。

さらにメモリ版を覆うガラスを平らでなく球面状にし、ぐっと高級感を出した。

ガラス面に「緑の目玉」を取り付けたのは、針先だけを見せてメモリを読み易くする工夫という。

宗理を抜てきしたアイデアマンの当時の社長、寺岡武治と喧嘩腰でのやり取りを重ね、完成にこぎ着けた。

東京都大田区の同本ストアでは、「毎日百円までお入れください」と書かれた集金袋を保管している。

59年の発売時価額はおよそ1万7千円。

あまりに高額ゆえ個人商品に毎日100円づつ貯金するように勧め、分割払いで売り出したという。

電気コードがない秤は小さな商店や百貨店の炊事場などで重宝がられた。

2000年代に販売終了。

デジタルスケール全盛になったが、今も日常遺いする店がある。

東京下町にある「ほていや 中塚商店」。終戦の翌年から長谷の職人や子供の「お三時」にいり豆などを売ってきた。

お店に置く2台の秤をもう何十年も愛用するほか、これがいよいよ壊れた時のために、

廃業するという商店でもらい受けた秤数台、裏で大事に保管している。

「何より使い易くて、うちみたいな店構えにもしっくりなじむ」。

創業時に職人に作らせたという樫の木の商品棚を触りながら仙台店主の中塚泰司さんが笑った。

「デザイナーの名を知らないまま宗理のプロダクトを使い続ける人は意外に多い」と土田さんは話す。

注ぎ口が左右にはりでた「片手鍋」も発売から半世紀以上、デザインに手が加えられ、使い続けられている。

楕円に近い蓋をわずかにずらせば楽に湯ぎりしたり、吹きこぼれを防いだりできる。

利き手がどちらでも使いやすく、流しがコンロの左右どちらに合っても水を切りやすい。

今でいうユニバーサルデザインの典型だろう。

「デザインによって作るのではなく、作ることによってデザインが生まれる」。

宗理は使いやすい手や作り手の声を聞き、材料の特性を見極めることで

自ずと出来上がる「詠み人知らず」のフォルムを、デザインと呼んだ。   

窪田直子  日経新聞。

 

 

コクヨ「ROTARY TAPE DISPENSER」!


「民芸」表紙!

手で考える柳宗理の工業デザイン・下!機械時代に問う「民芸」の精神!固定観念を覆し生活をよりよく!

 

1977年、柳宗理は東京・駒場にある日本民芸館の3代目館長に就任した。

初代館長は父の宗悦、2代目は父とともに民芸運動を支えた陶芸家の浜田庄司。

宗吉の長男とはいえ、陶芸や染織りなど手工芸のイメージの強い

民芸館のトップに工業デザイナーが就くという”異例の人事”だ。

翌78年には日本民芸協会の会長職も引き受けた。

民芸館が開館する2年前の34年、民芸運動の進行を目的に宗悦が創設した組織である。

84年から宗理は同協会が発行する雑誌「民芸」の巻頭で、民芸関係者を

挑発するかのような連載「新しい工芸」「生きている工芸」を4年にわたり掲載する。

ブラウンの電気髭剃り、ウイルキンソンの剪定鋏、登山用ピッケルに波止場のボラー度=繋船柱=けいせんちゅう ――-。

それは道具としての機能と美しさを備えるプロダクトを取り上げる企画だった。

正統派の民芸を紹介すべき巻頭で、機械による大量生産を写真入りで

載せたことに、戸惑いや反発は少なくなかったようである。

宗理はどんなことを書いたのか、アイスクリーム用のスコップを取り上げた回を見てみよう。

アイスクリームを容器からさらに移すためのアルミ製スコップは、

「すこぶる機能的で使い易く」、

「素朴で地方強い形態」だと賞賛し、

「機械製品でも、クラフトシップ精神さえ持てば、

こんなに素晴らしいのができる――民芸精神が立派にここに生きている」と書いている。

「良いものには素直に良いと認める度量を持ってほしいと思うわけです。

民芸関係に皆様、どうか目を見開いてください」。

機械製品と主工芸品に優劣はないと、最後に読者に訴えかけた。

デンマーク製の卓上セロファンテープ・カッターは「適宜の重さがありますから、

テープを引っ張って切り取る時でも動かなくて、使い易く、用に即した健康な姿をしております」。

アルミの鋳物に黒い艶消しの塗料、機械切削で仕上げており

「機械でなくては表現できない清潔で簡明な姿」だと解説する。

別の会の卓上コンピューター=卓上計算機 を取り上げ、算盤を愛用する

年配の読者から批判が寄せられた時には、次のように記した。

「私は手工芸的な算盤を無下に否定しているわけではありません。

我が国の人々の長い生活の歴史の中に育った美しい算盤の

心を引き継いで、新しい世界を組み立てていきたいと切に思うだけなのです。

過去に及び現在は未来のためにあるのです。

然らざれば、民芸館も単に過去の民芸の墓場になってしまうでしょう」

日本民芸館学芸部長の杉山享司さんは「”骨董好きの年寄りのもの”

という民芸に対する世間のイメージを打ち破りたかったのでしょう。

民芸運動は人々の今の生活をよりよくするための

デザイン運動だ、との信念があった」と宗理の思いを代弁する。

宗理は館長就任時、自らの使命を「民芸館をいかに現代生活に結びつけるか、

民芸をどのように現代の生活に蘇えらせるかにある」と語った。

「電卓や繋船柱が民芸だと言ったわけではない。

形状の美や使い勝手という民芸の精神があるか、良い材料の

使用や誠実な創作態度というもの作りの心がこもっているか。

そこを見ていた」と杉山さんは話す。

ワーク=仕事 とライフ=私生活 がシームレス=継ぎ目のない 

になってゆく時代の商品とはどんなものか――-。

文具メーカー、コクヨの開発チームはコロナ渦の前の

2015年ごろ、社内でそんな議論を始めた。

ステーショナリー事業本部の桜井陽さんは、宗理が1960年代にデザインした

セロファンテープ・カッターをすぐに思い浮かべたという。

思わず触れたくなるゾウのような愛らしい形と、360度回転し、

どの方向からもテープが切りやすい機能性を併せ持つ名品だ。

これまで同社で販売したテープ・カッターは、いわば事務用品だ。

頑丈で壊れにくければ、それでいい。

切れ味といった機能は常にグレードアッププしてきたが、見た目が

大幅にモデルチェンジすることはほとんどなかった。

桜井さんは「文具は使わない時間が長い。

(宗理のカッターは)使っていない時も見ていてほっこりできる。

豊かな気持ちにさせるインテリアのような存在になるのでは」と復刻を提案した。

白い本体に使われたメラミン樹脂を整形する工場は

すでに国内にほとんどなく、別の素材で試作もした。

しかし陶器のような温かみも、厚みや重量感も出すことができず、

メラミンを扱える滋賀県の工場を探し出し、オリジナルに忠実に復刻したという。

使い込むうちに少しずつ黄ばんで色も馴染む。

宗理がことのほか大事にした素材の質感が、半世紀以上たった今再び共感を呼んでいる。

 

 

民族の伝統文化の上に常に新しい添木をして文化を伸ばしていく!「アノニマスな機能美」を追い続けた2人!

人が使い込んで「用の美」が形成!民族の伝統文化の上に常に新しい添木をして文化を伸ばしていく!「アノニマスな機能美」を追い続けた2人!

 

2000年代はじめ、京都工芸繊維大学の教員になりたての松隈洋さんが、

学生たちを宗理のアトリエに引率したときのことだ。

80台半ばを超えたのデザイナーは「アイム宗理、アイム・ソーリー」

と笑わせながら一人一人気楽に握手したという。

今回取材であった誰もが、おちゃめで陽気な宗理のエピソードを話してくれた。

「頑固でけんか早いところもありましたよ」と日本民芸館の杉山さんは振り返る。

愛車を運転中、他の車に追い抜かれると「こんちくしゅう」と抜き返すこともよくあった。

民芸館の階段でお年寄りにすっと手を差し出す思いやりを見せる一方で「戦う姿勢が強かった」と話す。

それは父にも通じる気質だと杉山さんは見る。

「雑器」とさげすまれた日用品に「用の美」を見出し、評価を高めるべき奔走した宗悦。

「世の中にこの美を分からせるんだと膨大な文章を描き、物を収集して民芸館を建てた。

評価されるべきものが不当に扱われることへの憤り、正しくないことに

声をあげる正義感。それは柳家に流れるものだったように思います」

宗理が民芸館長になった頃は、宗悦とともに民芸運動を盛り上げた当事者たちが存命だった。

手工芸を重んじるあまり、いわゆる民芸の定義にそぐわないものへの拒否感を示す関係者も少なくなかったのだ。

民芸を現代社会に開こうという宗理のやり方が、摩擦を生んだことは想像に難しくない。

それでも宗理は民芸の信仰者には機械製品の良さを伝へ、工業デザイナーらには手工芸の民芸の魅力を訴えた。

「互いに敵対するのは不幸だ。2つの兄弟、仲間として互いに補完する関係にならないと、

人々の生活はよくならないと考えていた」と杉山さんは指摘する。

そもそも宗理自身も若い頃は前近代的な民芸に反発を抱く。

しかし、自らの工業デザインを突き詰めていく中で、民芸との共通項を見いだしたのだろう。

たとえば民芸の「用の美」「無名性」はモダンデザインの「機能」「アノニマス」といったキーワードと重なり合う。

良い材料を用いて作られる日常の品が民芸。宗理も良いプロダクトの条件として、

優れた材料と近代的技術の使用、大量生産の経済性を挙げる。

「柳宗理は古くさい工業デザイナーとして見られる時代が長かった」と指摘するのは、

日本を代表するプロダクト・デザイナーで現在、民芸館長を務める深澤直人さんだ。

強烈な色や形で販売意欲をそそる「エモーショナル・デザイン」のうねりが戦前の世界を長らく席巻した。

様々なデザイン製品が生まれては消える大量消費の時代が終わり、

2000年代頃になって宗理への注目が一気に高まったと見る。

深澤さんが注目するのは「手で考える」という宗理の手法だ。

「自分の手はすべての人の手の一つという姿勢でものをデザインしていたのではないか」。

つまり、自意識を消し去り、具体的なもののイメージをできるだけ

頭に描かないようにして、自分の手で道具とみなして模型を作った。

深澤さんはそう推測する。

「デザイナーの表現としてこういう形を作るんだというやり方ではなく、

みんなの無意識の共鳴として、人間の生活に有用な物を作るスタンスだ」だという。

それは民芸の「用の美」が、たくさんの人の手で使われることによって

作り上げられるプロセスを、追体験していたと言えるかもしれない。

高速道路の防音壁や歩道橋、地下鉄構内の水飲み場など、宗理の仕事は社会の

隅々にわたるが、「アノニマス」な仕事の典型に「工業用バルブ」がある。

配管などに取り付けられた赤いアルミ製のバルブはシンプルでいて

握って開け閉めやすいように凸凹がついている。

「あまりにも機能的すぎて、誰かがデザインしたと思われて使われているのがすごい」深澤さん。

現代のデザイナーの役割は、表面的な形や色というよりも

「人と物の関係性を作ること」へ変わりつつあると深澤さんはいう。

誰にとってもわかりやすいインアターフェース、体になじむ操作性を

実現したスマートフォンが何十億もの人々の必需品になったのはその典型例だ。

宗悦の民芸運動からおよそ100年がたった。

普遍的な古今東西の手工芸品の美に光を当てたそのデザイン運動は、

土着的な物をただ温存する物ではなかったと杉山さんは指摘する。

「民族の伝統文化の上に常に新しい添木をして文化を伸ばしていく。

そんな考えから生まれたのです」。

宗悦と宗理、「アノニマスな機能美」を追い続けた2人の思想はグローバル時代を生きる知恵である。  

窪田直子   日経新聞。

 

 

工業デザインに貢献した生き様は、すごいの一語に尽きる!デザインには感心があって、そのデザイン性に惹かれた一人でした!

工業デザインに貢献した生き様は、すごいの一語に尽きる!デザインには感心があって、そのデザイン性に惹かれた一人でした!

 

今日のまとめ。

戦後の日本を代表する工業デザイナーの柳宗理=1915~2011。1920年代に「民藝運動」を指導した思想家、

柳宗悦の長男に生まれ、青春時代にル・コルビジェらの欧州のモダニズムを吸収した。

太平洋戦争の戦地フィリピンから帰国後、機械時代における温かく人間味あるインダストリアルデザインを花開かせた。 

負傷した脚用の添え木から発想!バタフライ・スツール!

曲げることで合板の強度が増すことにも気づき、羽ばたくチョウのような形態の原型! 

石こう模型によるぽってりした造型!工業化社会を前提にしながらも、

あくまで生活の中で使われる優れたデザインを人間の視点で作る! 

手で考える・柳宗理の工業デザイン・中!「読み手知らず」機能性抜群!「模型よりも形」材料の質も重視! 

全ては現場からアイデアの源泉に!宗理のボウルは豪快に卵を泡立っても外に飛び散らない! 

手で考える柳宗理の工業デザイン・下!

機械時代に問う「民芸」の精神!固定観念を覆し生活をよりよく! 

人が使い込んで「用の美」が形成!

民族の伝統文化の上に常に新しい添木をして文化を伸ばしていく!

「アノニマスな機能美」を追い続けた2人!

今日は宗理について、上、中、下と3回にわたって記述しましたが、

時代の流れの中で民芸の精神を自分なりに生かし、

工業デザインに貢献した生き様は、すごいの一語に尽きる!! 

私も天童木工のデザインには感心があって、そのデザイン性に惹かれた一人でした!!

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ABOUTこの記事をかいた人

私はかなり高齢な建築家です。出身は伊豆の湯ヶ島で多くの自然に触れて育ちました。少年時代の思い出も記事になっています。趣味が多くカテゴリーは多義に渡ります。今は鮎の友釣りにハマっています。自然が好きで自然の中に居るのが、見るのが好きです。ですので樹木は特に好きで、樹木の話が多く出てきます。 電子書籍作りも勉強して、何とか発売できるまでになりました。残り少ない人生をどう生きるかが、大事です。