切り開く!緑と運を信じ!イタリア料理人を日本に広めたカリスマ料理人、落合務さん。My Story!夢は見続ける! !

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イタリア料理人を日本に広めたカリスマ料理人、落合務さん!

切り開く!緑と運を信じ!イタリア料理人を日本に広めたカリスマ料理人、落合務さん。My Story!夢は見続ける! !

 

イタリア料理人を日本に広めたカリスマ料理人、落合務さん。

成功を支えたのは三人の恩人だった。

技術や知識は一生懸命に学べば身につき、使いこなすセンスも磨ける。

そしてつかんだチャンスに感謝する。

縁と運を信じて突き進む。

握りしめた拳が相手の顔面に命中した。

指に鈍い痛みが走る。

鼻血をだした年上の店も責任者とにらみあう。

約45年前、働いていた東京・赤坂のアメリカンスタイルのレストランで殴り合いとなった。

ランチタイム、満席の中での出来事だった。

けんかの半年前、フランス料理店への転職が決まっていたが、店のオーナーの桂洋二郎さんから頭を下げられ、取りやめた。

自分では納得していたつもりだったが、憧れていたフランス料理への道に進めないイライラが積もっていたのかもしれない。

20代後半、技術を身につけるための年齢的な焦りもあった。

 

 

恩人の桂洋二郎さんのお墓参り!


支えてくれた恩人たち!現地修行の機会に感謝!ホテルニューオータニ東京・千代田 を経て、24歳で桂さんの店に移った!

 

「派手にやりましたね」。

翌日、落合さんの左目付近の腫れを見て、上司で総支配人の中村博夫さんが渋い顔でつぶやく。

叱責はない。

中村さんは落合さんを最初に引き立ててくれた最初の恩人だ。

日々の仕事を全力で取り組み休みの日にも図書館でメニューを考えていた落合さんに目をかけてくれた。

プライドを持って作っていた新メニューの試食をいつもおいしいと励ましてくれた中村さん。

「よし次はもっとうまい料理を出そう」。彼のためならと働き続けた。

小さい頃の憧れは商社マンになる事だった。

大学までエスカレーター式に行かれる附属中学に入学し、何不自由ない生活を送っていたが、ある時父親と衝突した。

自由奔放で6回結婚し、6回離婚した。父親は落合さんが高校1年生の時、三番目の奥さんと別れた。

「親父が変わらないなら、高校をやめる」とたんかを切ったら、父親には「いいよ。

やめて一体なんの仕事をやるんだ」と切り返された。

当時話題となっていた東京五輪の選手村に帝国ホテルが料理人を派遣するという

ニュースがぱっと頭に浮かび、「コックになる」と口にしていた。

後に引けなかった。

東京・日本橋の食堂に見習いで入り、ホテルニューオータニ東京・千代田 を経て、24歳で桂さんの店に移った。

31歳の時、大のイタリア好きだった桂さんから「落合、イタリアへ修行に行け」と急に命じられる。

落合さんの普段の仕事ぶりを見ての指名だったのだろう。

だが、イタリア語もきちんと話せず、もちろんコネもない。

頭を抱えた。

それでも期待をかけられたら真摯にこなす。

ローマ、ナポリ、ヴェネチアなどのレストランを12、13軒と渡り歩いた。

修行の期間は2年8ヶ月に及んだ。

目についたレストランに飛び込み、片言のイタリア語と身ぶりで「働かせてほしい」と頼み込んだ。

仕事が終わってアパートに戻るとキッチンで見て覚えたばかりの調理法や食材を忘れないよう、メモ帳に丁寧に書き込んだ。

桂さんに任されたうえ、会社に給料から住居費、交通費などすべて負担してもらっているというプレッシャーがあった。

「ここで結果を出さなければ」。

フランス料理へのこだわりはいつも間にか消えていた。

中村さんは毎週のように手紙をくれた。

「山口百恵が引退コンサートをして、最近は松田聖子が人気」といった、

取り止めのない内容だったが、ひとり異国の地をてんてんとする落合さんには慰めになった。

温かい雰囲気が行間から伝わり、イタリア修行の支えとなり励ましになった。

ただ帰国後、しばらくして中村さんは病気のため退社し、やがて亡くなった。

深い寂寥=せきりょう に包まれた。

 

 

ホテルニューオータニでの修業時代!


「まさに母国の味だ」イタリア人も認める!日本にイタリア料理を広めるきっかけをつくってくれたランドウッツイさん!

 

1982年、東京・赤坂に本格的なイタリア料理店「グラナーダ」を開店した。

本場と同じ味の料理を出していたが、約100の客席は閑古鳥が鳴いていた。

たまに客が来てもスパゲティに「芯が残っている」と苦情が出る始末。

「これが本場の作り方ですよ」といくら説明しても訝=いぶか しがる。

「シェフを呼んでほしい。

また苦情を言われるとばかり思っていた落合さんを待っていたのは、

当時イタリア政府観光局の局長、フランチェスコ・ランドウイッツさんだった。

身構えていたが彼の口から出てきたのは「まさに母国の味だ」。

落合さんの料理を試すように3回通った後、直接褒め言葉をくれ、大使館やイタリア企業に勤める人々に薦めてくれた。

イタリア人が多く訪れる店として、徐々に日本にも浸透していった。

桂さんの突然の死をきっかけに独立し、97年、東京・銀座に「ラ・ベットラ・ダ・オチアイ」を開業した。

テーマは修行で得た毎日食べても飽きないイタリア料理。

手頃な価格で出すことに心血を注いだ。

グラナーダでは「バブル期には1人1万5千円程度を払う客も珍しくなかった」が、家賃の安い裏通りに

店を構えるなどコストを抑え、前菜、メイン、デザートを数点から選ぶ「プリフィクス」を4千円以下で提供した。

とはいえボリュームも含めて、一切妥協しない。

いつしか「日本一、予約の取りにくい店」と知れ渡る。

「才能があっても人との出会いがうまく重さらないと埋もれてしまう」。そうして落合さんには「運があった」。

仕事に取り組む姿勢を認めてくれた中村さん、未知の外国で腕を磨く場所を与えてくれた桂さん。

日本にイタリア料理を広めるきっかけをつくってくれたランドウッツイさん。

「縁がなければイタリア料理人としての私はない」

コロナ渦でラ・ベットラの売り上げも減り、ホテルでのイベントも中止になりキャンセル料も支払った。

事実上、無借金経営だったが、従業員や取引先への支払いのため、借り入れざるを得なかった。

ただ、難局でも蓄えた知恵や経験を、組み合わせてみれば答えは出る。

恩人たちの期待を背負って「自分の味はなんなのか」を今も求め続ける。

若い料理人の多くが「自分の店を出すのが夢」と話すが、落合さんは

「これは実現可能なこと、希望」とみる。本当の夢は「見続けるもの。

とんでもないこと」。

人には語らない。

胸の内にしまって、心を燃やす。     

近藤英次 鈴木健撮影。日経新聞。

 

 


父の影響で大のクルマ好きに!

My Charge!父の影響で大のクルマ好きに!仕事場までの一人空間!

 

車は19歳から所有している。

気に入った車に出会うと、手に入れたくなる。30代後半から50代にかけては「稼いだお金の多くを車に注ぎ込んだ」

埼玉県の草加市に住んでいたころは自宅に3台、駐車場に4台所有していた。定職につかず気ままにいきた父はドライブが好きだった。

父は落合さんが幼い頃からオート三輪の助手席に座らせて、都内をあちこち連れ回してくれた。「車好きはそんな父の影響もあるのかもしれない」

今のお気に入りは2016年9月に手に入れた「キャデラック」。

購入前に試乗させてもらった際、アクセルを踏んだエンジン音が「私の言うことを聞いてくれると感じた」。

都内の自宅マンションと店がある銀座を結ぶ通勤の足として使う。

片道約30分の運転中は快適なプライベート空間。

出勤時は「これから仕事だ」と言う戦闘モードにスイッチを切り替え、仕事が終わり家路に着く際には自然と気持ちが落ち着く。

東京・麻布市にある「鮨=すしかん」。

落合さんは月1、2回自分の店が休みの日に訪れる。

主人の菊池寛さんとは35年以上、「グラナーダ」で働いている頃からの付き合いだ。

夕方、店に電話をかけて菊池さんから「大好きなマグロ、いいのあるよ」と言われると、頭の中が喜びで溢れる。

カウンター席でまずは6貫は出てくるマグロを平らげ、お茶を飲みながら合計18貫ほどつまむ。

菊池さんとな何しろ気が合う。

世情から共通の友人の話、時には愚痴も聞いてもらう。

お客の落合さんに対しても、甘いことは言わない。

「落合さんそれ楽観すぎるよ」と平気で言い返す。

腹を割って安心して話せる関係がとても居心地が良い。

親友の菊池さんはてっきり年上だと持っていたら2つ下の71歳と知って驚いた。

鮨はネタと酢飯だけで構成されているが、味の奥行きは深い。

イタリア料理は見た目はシンプル。

洋食と和食、ジャンルは違えど素材の良さを極限まで引き出そうと、見えないところで努力する姿は料理人として通じる。

普通のメニューにこそ、料理人の力量が表れる。

お客からの最高の褒め言葉「普通においしい」をもらうためのエネルギーをここで充填する。

イタリア料理人落合務さん。おちあい・つとむ 1947年生まれ。高校中退後の64年、日本橋の食堂に見習いで入る。

66年ホテルニューオータニ東京・千代田 のコックに。

82年からイタリア料理店「グラナーダ」で約15年間勤務。

97年、東京・銀座に「ラ・ベットラ・ダ・オチアイ」を開業。

2005年イタリア政府から共和国功労勲章「カバリエーレ」をうける。

20年黄綬褒章=おうじゅほうしょう を受賞。

東京都足立区出身。

 

では落合シェフの研究をします!

 

 

 

知らない人がいないというほどの人気のシェフ、落合務!

落合シェフ物語!知らない人がいないというほどの人気のシェフ、落合務!!

 

[落合シェフ物語]    

「プロローグ」   

知らない人がいないというほどの人気のシェフ、落合務。

そんな彼も、決して順風満帆にイタリア料理人の道を歩んできたわけではない。

どうして料理の道に進んだのか、なぜイタリア料理なのか、LA BETTOLAが

「日本一予約が取れないレストラン」と呼ばれるようになった理由は…。

これらを本人から語ってもらいましょう。 

[若い両親の元に誕生]    

僕は、1947鎌倉に生まれ、1歳まで過ごしたあと、庶民的な下町、東京足立区本木に移り住み、そこで育った。

両親は高校の同級生同士で18歳で結婚して、僕を19歳で生んだ。

僕は2歳の頃からカトリックの私立幼稚園に通っていて、本木では「おぼっちゃま」だった。

僕は2歳の頃からカトリックの私立幼稚園に通っていて、本木では「おぼっちゃま」だった!

というのは、祖父が本木でメッキ工場を営んでおり、小さい頃はたいへん羽振りがよかったのだ。

両親も実質的に祖父に養ってもらっており、親子3人が扶養者だった。

そのくせ、日曜日は両親と自動車に乗って浅草や上野に遊びに行ったものだ。

そんな贅沢をしても大丈夫な幸せな時代だった。

[生活が一転]     

祖父が事業に失敗してから、生活が一変した。

それは、僕が小学校1~2年生の頃だった。

工場や住宅を失い、祖父は失意のうちに亡くなり、生活も厳しくなる一方だった。

僕は、小学校の頃わりと勉強ができたので、両親や祖母も期待し、進学塾に通わされ、私立の中学を受験した。

そこは大学までエスカレーター式に行ける付属中学だったが、高校に入る頃に祖母も亡くなり、

家のゴタゴタや肉親の死などで勉強をする気力も失せてしまった。

[料理に目覚めたのは]    

料理に目覚めたのは、中学のとき、父親に連れて行ってもらった近所の中華そばやで見た光景がキッカケ。

そこの親父が炒飯を作る、魔法のような手際の良さに釘付けになった。

トントンとネギを刻む速さや、中華鍋を振るうたびに飯粒が天を舞い、具と飯が混ざり合って鍋に戻る不思議。

このとき、僕の脳裏には鮮明にこの光景や焼き付いてしまったのだ。

コック見習いは17際の時、趣味は登山!

一人息子の僕には、家族みんながエリートの道を期待していたのだが、僕は正直学校へ通うのがつらかった。

結局、家庭環境の変化も関係したのだが、高校を1年で中退し、料理の道に進んだ。

もちろん、料理人にはなりたかったけど、高校をやめる口実が欲しかったのも本当だ。

同じ料理人でも、父親は寿司職人を勧めていたんだけどね。

[見習いから料理人の道へ]    

知人の紹介で日本橋のレストランに見習いで入ったが、そこは僕が想像していた料理の世界とはほど遠かった。

今度は自力で違うレストランを探し、就職。

ここで初めてフランス料理の手ほどきを受けた。

僕はフランス料理を知れば知るほど本格的に学んでみたいと思うようになり、どんどんのめり込んでいった。

 

 

ホテルニューオータニでの修業は意味のあるものだったが、反面、物足りなさも感じるようになっていた!!

日本での修業時代!ホテルニューオータニでの修業は意味のあるものだったが、反面、物足りなさも感じるようになっていた!!

 

[日本での修業時代]    

ホテルニューオータニでの修業時代(20歳)  

フランス料理を覚えるのならホテル修業が早道と、僕は19歳のときにホテルニューオータニに移った。

皿洗いの一からの出直しだ。

でも幸いなことに、入社3か月で厨房に異動になり、本格的にフランス料理を学ぶ機会を得た。

ホテルニューオータニでの修業は意味のあるものだったが、反面、物足りなさも感じるようになっていた。

確かにレシビどおりに料理も作れるし、見栄えも美しい。

でも何かが足りない、そこには独創性がないんだと感じたのだ。

個性を出せる料理が作りたいと思った。

そして、だんだんフランスで本格的に料理を基礎から学びたい、料理の真髄を知りたいと切望するようになってきた。

[恩人との出会い]    

恩人の桂洋二郎さん     

フランス行きの資金を稼ぐため、ニューオータニから給料のよいレストランに移った。

そこで出会ったのが、今は亡き「グラナータ」の初代オーナー「桂洋二郎」さんだ。

この頃、桂洋二郎さんは、「トップス」や日本料理店「ざくろ」、当時の高級フランス料理店「シド」を経営しており、僕はトップスで働き、彼にかわいがってもらった。

28歳になったとき、フランス料理を学ぶためオーナーの桂さんに辞めたい旨を申し出た。

さんざん説得された翌日、桂オーナーから「1か月間、フランスに行って来い。

金は出す」というありがたいお言葉をいただき、初めての海外旅行に出発した。

[いざフランスへ]    

夢にまでみたフランスに到着。

見るもの、味わうもの、感激至極、感動の嵐だった。

トゥール・ジャルダン、マキシム、タイユ・ヴァンと三星レストランを食べ歩き、リヨン、ニース、マルセイユを旅した。

リヨンでのポール・ボキューズのレストランでは、感激のあまりに3回も食べに行って、何とかここの厨房で働きたいと思ったものだった。

既に頭の中は、フランスで修業するためのこれからの計画でいっぱいだった。

[イタリア料理人に宗旨替え]    

フランスの旅を終えて、ついでにスペインとイタリアに寄った。

イタリアは飛行機の都合で、どうしても4日間滞在しなければならなかったのだ。

ローマに着いたときは「ゴミゴミしたところ」という印象。

街のレストランで出される食事は同じメニューばかりだし、美的センスの欠片もない盛り付けにゲンナリ。

とか言いながら、毎日違うレストランに行って食べ続けた。

そして、この4日間にイタリア料理を飽きずに食べている自分がいることの気がついたのだ。

イタリアの飯は、毎日食べても飽きない、これは目からウロコだった。

食事とは本来そういうものだと、初めて気が付いた瞬間だった。

これは、フランス料理人からイタリア料理人に宗旨替えする十分な理由だった。


毎日食べても飽きないおいしい料理を作ろう、おいしい料理を食べる喜びを

お客さまに知ってもらおう、僕の前に新しい世界が開かれた。

ちょっとフランス料理の言い訳をするなら、毎日有名レストラン

ばかり選んで食べていたから、昼夜と食べ続けるのがきつかったのかもね。

これは自分のせいだ、フランス料理が悪いわけではない。

[1年間のイタリア語学習のあとイタリアへ]    

日本に帰って、さっそくイタリアンレストランへ行ってみた。

ところがどうだろう、僕がイタリアで食べた味とはぜんぜん違う、根本的に違っている。

僕は桂オーナーに、イタリアで食べたイタリア料理のすばらしさを説明し、イタリア料理を学びたいことを相談した。

意外なことに、桂オーナーからは「好きなだけ行って来い」と超が付くありがたい言葉をまたもいただいた。

とは言っても、すぐに出発とはいかないので、1年間のイタリア語学習のあとイタリアへ旅立ったのだ。

 

 


LA BETTOLA daOchiai!


イタリアでの料理修業!ローマでは、「チェレスティーナ」で修業開始!本当にイタリア人って暖かい!

 

[イタリアでの料理修業]    

最初の店「チェレスティーナ」の厨房にて   

修業中とはいえ給料がないとつらい。

桂オーナーはそんな僕に家族を養う給料も支給してくれた。

ローマでは、「チェレスティーナ」で修業開始。

「チェレスティーナ」には、突然飛び込んで片言のイタリア語で「日本人です。

ここで働きたい」と必死で説明した。

もちろんジェスチャー付きだ。

無給ならということで1か月の約束で仕事を確保したのだが、

1か月を過ぎる頃にはそのまま見習いとして働けるようになった。

結局8か月あまりもここにいたんだ。

給料も他の料理人の半分位だったが、日本円で7万円程度もらえた。

7万円あれば、3万円のアパート代を差し引いても十分だった。

「お金はいらない、働きたい、飯だけ食べさせて」を条件に、イタリア各地のレストランで働いた。

当時、イタリアのリゾート地では日本人、というか東洋人が少なかったから珍しがられて、

僕が給仕に出るとイタリア語がしゃべれる日本人ということでお客さまの間で評判になることもあった。

有名人が密やかにやってくる「隠れ家的レストラン」でも働いたことがあった。

どこの馬の骨だかわからない東洋人だったが、イタリア各地のレストランで働いていた

ことを話すと、許可がおり、レストランの2階を住まいとして提供してくれた。

LA BETTOLAで出している料理は、こんなイタリア人との出会いと思い出と愛情で作られている。

本当にイタリア人って暖かい。

イタリアには、1978~1981年の約3年間いたのだけど、ずっと行きっぱなしではなく、ときどき

貧窮状態になって、資金稼ぎに日本に帰って稼いでまた行くという、逆出稼ぎの状態だった。

[修業したホテル・レストラン名]

「ローマ」    

・チェレスティーナ  

・アルチェッポ  

・コンテヴェルデ  

・アンバシャータ アブルッツォ  

・セッテコッリ  

・トウリオ

「ナポリ イスキア島」  

・エルマホテル

「シチリア・パレルモ市」  

・グルマンズ  

・ラ・スクデリーア

「シラクサ市」  

・トラットリア アルキメデ  

・レストラン ミノッセ

「カステリーナ イン キャンティ」  

・ダ・トッレ

「フィレンツェ」  

・ホテル ミケランジェロ   

・ホテル アストリア

「ボローニャ」  

・ディアナ

「フェラーラ市」  

・ファンタスティコ ジョベディ   

・トラットリア ダ イド

「ベネチア」  

・ドウ フォルニ

「他多数」

 

 

落合務のパーフェクトレシピ!


グラナータでの一生の思い出!桂オーナーから赤坂にオープンするイタリア料理店「グラナータ」のシェフを任された!

 

[グラナータでの一生の思い出]    

右側サングラスの男性がフランチェスコ ランドウッツィーさん  

1981年、2年8か月の修業を終え、ようやく帰国。翌年、桂オーナーから赤坂にオープンするイタリア料理店「グラナータ」のシェフを任された。

100席のイタリアンレストランだ。まだ、イタリア料理どころか「パスタ」という言葉さえ一般的でなかった時代だ。

オープン記念の2日間はまずまずの入りだったが、その後がいただけない。

まったくお客さまが入らないのだ。

僕は迷って自信を失いかけていた、日本風イタリア料理に切り替えるべきか。

でも桂オーナーは「わかってもらえる」「常に本物を出す」と最初の方針を曲げなかった。

生涯で初めて2度も胃潰瘍になったのも、このときだ。

閑古鳥は半年から1年余り続いたが、イタリア政府観光局の局長フランチェスコ ランドウッツィーさんが来店してから事態が一変した。

彼のクチコミで在日イタリア人や大使館の方が見えて、日増しにグラナータは活気を帯びてきた。

そして、1984年に大ブレイクが起こり、予約ができない状態に!

僕が思うに、イタリア人は他の国の料理っていうのを認めない。

俺が食いたいのはイタリア料理だ!

って思っているから、本場のイタリア料理をどこでも食べたいんだね。

[LA BETTOLA開店までの経緯]    

LA BETTOLA da Ochiai    

大々恩人の桂オーナーが1994年8月に急死。

僕は生きがいまでなくしてしまったように感じた。

でもすぐに辞めるわけはいかない。

僕は、桂オーナーの3回忌を経て、14年間勤めたグラナータを退職した。

辞めたあとは、勤めているときはできなかった「食べ歩き」だ。

何がおいしいと言われる理由なのか、行列ができる原因なのか、それが知りたかった。

1997年9月、ついにLA BETTOLAがオープン。

LA BETTOLAでは、夜は1人前3800円(税抜価格)のセットメニューになっている。

前菜、パスタ、メイン、ドルチェを各20種類ほど用意して、どんな料理を頼んでも金額は変わらない。

これを頼むと追加いくらというのは好きじゃない。

結局、高くなってしまったのではセットメニューの意味がないし、お客さまに申し訳ない。

何だか詐欺っぽくないか? 

だから潔く同じ料金で行こうと思っている。

それより何度も足を運んでもらうほうが僕はどれだけ嬉しいか。    

LA BETTOLA より。

 

 

2度の苦難を乗り越えたイタリア料理の伝道師 落合務!

2度の苦難を乗り越えたイタリア料理の伝道師 落合務!最初はフレンチのシェフ志望  人生を変えた桂洋二郎との出会い!!

 

[2度の苦難を乗り越えたイタリア料理の伝道師 落合務]    

「ちょっと芯が残っている」

と苦情 アルデンテが理解されなかった80年代  

イタリア料理はフランス料理に大きく遅れをとっていた。 

日本に広がり始めたのは、「イタメシ」という言葉が生まれ、ティラミスが人気を集めた1980年代末からの話だ。

1970年代後半までのイタリア料理は、ケチャップやパルメザンチーズを使うアメリカ経由のイタリアンだった。 

落合は現地と時差のない料理を供したパイオニアだった。

82年5月、赤坂にオープンしたリストランテ「グラナータ」で料理長として腕を奮った。

ナポリタンやピザをイタリアンと思ってきた日本人の反応は厳しかった。  

「このスパゲッティ、ちょっと芯が残っているよ。この前もそうだったな」  ”アルデンテ”は理解されていなかった。  

それでも妥協はしなかった。

肉も魚も丸ごと焼いて出した。

パスタは注文を受けてゆで始めた。

いつまでも料理が出てこないので、お客は怒って帰ってしまう。

TBSに近い赤坂の一等地に構えたレストランは99席を誇った大箱だったが、

8月になってもランチが15人、ディナーが10人という日が続いた。

後輩のシェフがつぶやいた。  

「友だちがタクシーの運転手をやってるんですよ。

すごく幸せそうで……もう辞めたいす」  

フレンチが主流の東京で、どうしたら客が入るのか?

落合にも解決策は見つからなかった。  

プレッシャーで2度も胃潰瘍を患った。

豪放磊落な性格からは考えられないが、出口の見えない不安に悩み苦しんだ。

豪華な食材はまかないに消えた。 

不入りが続いて1年以上、救いの主が現れた。

イタリア政府観光局の局長だったフランチェスコ・ランドゥッツィーさんがある日、来店して本場の味に喜んだ。

大使館、アリタリアやフィアットなどで働く、本物のイタリアンに飢えていたイタリア人たちに口コミで広がった。

イタリア人は、レストランガイドよりも友だちの評判を信じる人々だ。

本物のイタリアンが徐々に浸透していった。

本物のイタリアンが徐々に浸透していった!

[最初はフレンチのシェフ志望  人生を変えた桂洋二郎との出会い]     

落合は最初から、イタリアンを目指していたわけではない。

中学生で、近所の中華料理屋の親父さんが炒飯を作る手際の良さに魅了され、高校を中退して、料理の道に進んだ。

目標はフレンチのシェフ。

ホテル・ニューオータニで働き、現地で本格的に修行したいという思いが強まった。  

赤坂で日本料理店「ざくろ」とコンチネンタルレストラン「トップス」を経営していた

実業家桂洋二郎さんの下で、働く機会を得た。

人生が変わる出会いだった。 

28歳でトップスの副料理長を務めていた時、「やはりフランスで修行したいから辞めたい」と申し出た。

「お礼はするから」と引き止められた。

それが、1か月半のフランス研修旅行だった。  

会社のお金で、トゥール・ダルジャン、タイユヴァン、ポール・ボキューズなど名店を食べ歩いた。

食材、盛り付け、サービス……フレンチの頂点を体験して、フランスで修行する夢をふくらませた。  

乗り継ぎの都合で、イタリアに数日間、滞在した。

ただ焼いただけ、揚げただけの料理に思えた。

サービスも洗練されていない。

フランスにもっといればよかった、と後悔した。

[太っ腹なオーナーの下 イタリアで2年間の武者修行]   

帰国後、桂にきかれた。  

「どうだ、イタリアはよかっただろう。どこがよかった?」  

うれしそうなオーナーを前に、フレンチの方が良かったとは言えない。  

「素材をいかして、基本に忠実な調理が……」とお茶をにごした。 

その反応に気をよくしたのか、今度は「イタリアに好きなだけ行って来い」と言われた。

イタリアンで勝負しようという思惑があったのだろう。 

2年間の修行中に、シチリア、ナポリ、フィレンツェ、ボローニャ、ヴェネツィアなど各地を回った。

いつしか、毎日食べても飽きないイタリア料理の魅力にひかれていった。 

自分の経験を踏まえた改良点も加えたレシピのノートが大量にたまった。

給与は日本に残した家族の生活費にあて、渡航費から現地の生活費まで会社が払ってくれた。

桂は太っ腹のオーナーだった。 

落合は毎月、レポートと経費の領収書を手紙で送った。

点々と変わる自分の住所は書かない一方通行だった。

さすがに桂も怒って、幹部役員とともに現地に乗り込んできた。 

「おまえ、いい加減にしろよ」  

81年3月、帰国して、グラナータ立ち上げの準備が始まった。  

グラナータは街場のフレンチより高めの価格設定だったが、サバティーニなどと並んで本物のイタリア料理を日本に伝えた。

ルッコラやバジルはもちろん、オリーブオイルやトマト缶の種類も少なかった時代に、市場に通って、栽培から始めたハーブもあった。 

カジュアルなイタリア料理が「イタメシ」と呼ばれてもてはやされるほどポピュラーな存在になるブームの地ならしをした。 

落合も役員となり、組織の階段を登っていったが、再び苦難に見舞われる。

94年、桂さんが64歳で急死したのだ。

葬儀では号泣した。

泣こうと思わないのに涙が出てきて止まらない。

両親を失ったよりも悲しかった。 

「グラナータは桂さんが信念をまげなかったから、イタリア人が来てくれて、生き延びることができた。

『はやって、よかったじゃないか』と言われて、彼が喜んでくれる顔を見るのが励みだった。

どうなるのかわからないイタリア料理で、彼の恩に報いるのが生きがいだったから、いなくなって気が抜けた」

[オーナーの死で人生リセット  原点に戻った定食屋を開業]     

三回忌を終えた97年、落合は成功した高級リストランテを辞めた。  

3品で3800円の食堂「ラ・ベットラ・ダ・オチアイ」を銀座の外れ一丁目にオープンした。

グラナータと同じ食材は使えないが、同じ技術は使える。

退職金と母から借りた800万円を開店資金にあてた。

人生のリセットである。  

私も何度か訪れた。

料理のコストパフォーマンスもさることながら、ワインの価格が魅力的だった。

オルネッライア1998を8000円前後で飲んだのを覚えている。

ワインは開けるだけだからお金はとれないという考えだという。 

東京で、カジュアルな店も含めたイタリア系レストランは、フランス系よりはるかに多い。

落合がテレビに出演したり、各地でセミナーをしたりする人気も手伝って、

ラ・ベットラ・ダ・オチアイは東京で最も予約がとりにくいイタリアンの一つになった。

テナントへの出店や新店の開店などの引き合いは山ほどきたが、すべて断った。

簡単にいくわけがないと、自分を引き締めている。  

大勢の弟子を輩出してきた。

北海道から沖縄まで、各県に1人は育てた料理人がいるという。

イタリア料理の苗床である。

若い頃はキレることもあったが、今は人を育てる立場に回っている。 

そこにも桂さんの教えがある。 

「大声だすのはかまわない。

でも、だれもが自分と同じと思ってはだめだ。

おれができるのに、なぜおまえはできない。

そういうふうに考えてはいけない。できないやつはいるんだから」  

桂さんからは料理人としての基礎はもちろん、飲食店経営や人材教育まで教わった。

人生の師匠を持てたのは幸せなことだった。 

現在は日本イタリア料理協会の会長として、イタリア料理の普及に務めている。

若いシェフたちに酔ってからまれることもあるが、それも嫌いではない。

落合がかつて噛み付いたり、甘えたりした桂さんが思い描いたイタリアンを、自分なりに引き継いでいる。    

WINE REPORT より。

 

 

夢は見続けるもの!夢は必ず叶うもの、それが落合さんの人生!

夢は見続けるもの!夢は必ず叶うもの、それが落合さんの人生!!

 

今日のまとめ。 

イタリア料理人を日本に広めたカリスマ料理人、落合務さん。

成功を支えたのは三人の恩人だった。

技術や知識は一生懸命に学べば身につき、使いこなすセンスも磨ける。

そしてつかんだチャンスに感謝する。縁と運を信じて突き進む。 

支えてくれた恩人たち!

現地修行の機会に感謝!

ホテルニューオータニ東京・千代田 を経て、24歳で桂さんの店に移った! 

「まさに母国の味だ」イタリア人も認める!

日本にイタリア料理を広めるきっかけをつくってくれたランドウッツイさん! 

My Charge!

父の影響で大のクルマ好きに!

仕事場までの一人空間! 

落合シェフ物語!

知らない人がいないというほどの人気のシェフ、落合務! 

日本での修業時代!

ホテルニューオータニでの修業は意味のあるものだったが、反面、物足りなさも感じるようになっていた! 

イタリアでの料理修業!ローマでは、「チェレスティーナ」で修業開始!本当にイタリア人って暖かい! 

グラナータでの一生の思い出!

桂オーナーから赤坂にオープンするイタリア料理店「グラナータ」のシェフを任された! 

2度の苦難を乗り越えたイタリア料理の伝道師 落合務!

最初はフレンチのシェフ志望  人生を変えた桂洋二郎との出会い!

今日は落合シェフについて記述してきました! 

フランス料理を目指していた落合さん! 

成功を支えたのは3人の恩人だった! 

2度の苦難を乗り越えて、今があるのは桂洋二郎との出会いだった! 

それにしても夢は見続けるものだと、落合さんを見ていてそう思いました! 

夢は必ず叶うもの、それが落合さんの人生!!

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ABOUTこの記事をかいた人

私はかなり高齢な建築家です。出身は伊豆の湯ヶ島で多くの自然に触れて育ちました。少年時代の思い出も記事になっています。趣味が多くカテゴリーは多義に渡ります。今は鮎の友釣りにハマっています。自然が好きで自然の中に居るのが、見るのが好きです。ですので樹木は特に好きで、樹木の話が多く出てきます。 電子書籍作りも勉強して、何とか発売できるまでになりました。残り少ない人生をどう生きるかが、大事です。