ドレスに着物・東西で息づく!海を渡る更紗・下!西洋更紗・トワルド・ジュイ更紗!

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フランソワ=ユベール・ドルーエ「ポンパドゥール夫人」!


ドレスに着物・東西で息づく!海を渡る更紗・下!西洋更紗・トワルド・ジュイ更紗!

 

海を渡る更紗・上に続きドレスに着物に東西で息づくあらゆる更紗を紹介います!

今日はインド更紗に続き、

西洋更紗、ジュイ布、彦根更紗、西洋更紗トワル・ド・ジュイなどを

詳しく調べましたので公開します。

[ブルジョワ階級の邸宅彩るジュイ布] 

藤田嗣治 花柄の天蓋のかかるベットの前、思い思いにポーズをとる女性たち。

ギリシャ神話の女神を思わせるような裸婦たちは、

中央に立つ「視覚」を中心に、

向かってい左から触覚、味覚、収穫の「五感」を表しているとも言われる。

藤田嗣治の五人の裸婦!

ここに掲げた「五人の裸婦」は藤田=レオナールフジタ 

が初めて裸婦の群像表現を試みた作品で、

1923年のサロン・ドートンヌで発表された。

藤田ならではの美しい乳白色の肌に目が行くが、

その発光するような白さを際立てているのが、天蓋や女性の足元に置かれた布である。

細かく花模様が描きこまれて布は、

インド更紗をまねてイギリスやスイス、フランスでつくられた

ヨーロッパ更紗の一つ、「トワルド・ジュイ=ジュイ布」だ。

ヨーロッパ更紗の一つ、「トワルド・ジュイ=ジュイ布」です!

ジュイ布はインド出身の印刷技師、クルストフ・オーベルカンプが

1760年にフランスベルサイユ近郊の村ジュイ=アン=ジョサスで生産を始めた。

当初は木版による多色印刷で、

インド更紗から引き継いだ異国情緒あふれる模様の布を多く作っていた。

やがて植物図譜や絹織物を参考に、バラやユリ、アヤメなどと

ヨーロッパの装飾文様を組み合わせた独自の図案を生み出してゆく。

その華やかさは、かの有名なフランス王妃マリー・アントワネットにも愛された。

離宮プチ・トリアノンでくつろぎのひと時に好んできていたと言われる。

ジュイ布は70年にイギリスから銅版印刷の技術がもたされると、赤や紫の単調な色彩が増えてゆく。

デザインもヨーロッパの田園風景の中にロココ風に描かれた人物をちりばめたものに変わり、

こうした図案は今でもフランスの伝統的な生地とみなされている。

83年にルイ16世から「王位」の称号を与えられ、

フランス革命後もナポレオンや皇妃ジョセフイーヌの寵愛を受けた。

熟練の職人による美しい布は、タペストリーや屋敷としてブルジョワ階級の邸宅を彩った。

しかしイギリスでは産業革命が起こり、綿工業の機械化が進んだ時代である。

フランスにもやや遅れて機械科の波が押し寄せ、

手作業にこだわったジョイ布は次第に衰退する。

オーベルカンプのしご30年も経たず、1843年に工場は閉鎖された。

時代遅れとみなされたジョイ布が再び旭光を浴びるのは20世紀に入ってからだ。

芸術家たちを中心に産業革命以前の職人仕事を再評価する動きが起こった。

藤田もこの伝統的な布に魅力を感じる一人だった。

1920年代には「ジュイ布のある裸婦」22年、「タピスリーの裸婦」23年など、

しばしば作品でジュイ布を描いている。

 

 

西洋更紗トワルト・ジュイ!


ジュイ布=二色デザインの布や柄のこと!インド更紗を「チッソ」と呼ぶ!チタ=多彩!!

 

オーベルガンプが工場を持ったジュイ近郊に、

藤田が61年から亡くなる68年まで過ごした

アトリエ「現メゾン=アトリエ・フジタ」がある。

藤田が手がけたテキスタイルのデザインの調査を進める

フェリス女学院大学の准教授朝倉三枝さんは「アトリエにはミシンや糸などの裁縫道具とともに、

藤田が自分の妻の為に作った、

服や手ずくりのクッション、カーテン、ベットカバーなどの布製品がのこされていた」と話す。

残念ながら絵に描かれたジュイ布は残されていない。

しかし蚤の市でアンティークの布や日用品を買い揃えていた画家のことだ。

きっとお気に入りのジュイ布手元に置き、キャンバスに向かったに違いない。

フランスの代表的な布であるジュイ布がフランス人ではなく、

ドイツ出身の技師によって作られたことを意外に感じる人もいるかもしれない

理由を探し、歴史を少し遡ろう。

時は太陽王と呼ばれたルイ14世の絶頂期。

1686年10月26日の国際会議で「トワルパントの問題」が議題に上がった。J・ブレディフ著、

深井晃子訳「フランスの更紗」

トワルパントとは「描かれた布」といった意味。

これはトワルトパントです!

フランスではこの日初めて、

インド産のトワルパント、インド更紗の輸入、

および模倣品の生産が禁止された。

註記:藤田 嗣治は日本生まれのフランスの画家・彫刻家。

第一次世界大戦前よりフランスのパリで活動、猫と女を得意な画題とし、

日本画の技法を油彩画に取り入れつつ、独自の「乳白色の肌」とよばれた

裸婦像などは西洋画壇の絶賛を浴びた。

エコール・ド・パリの代表的な画家である。

フランスに帰化後の洗礼名はレオナール・ツグハル・フジタウィキペディア

[KEYWORD] 

「ヨーロッパ更紗」 更紗はもともと外来語だが、英語ではインド更紗を「チッソ」と呼ぶ。

サンスクリット語の「チタ=多彩な 」から派生したと考えられていたが、

近年ではインド土着の言語「チッタ=斑点模様の布」が変化したする説などもある。

インド沙羅と区別するためヨーロッパで生産された沙羅は一般に「printedo cotton」と呼ばれる。

手書きのインド沙羅とは異なり銅版とローラー捺染=なっせん で大量生産された。

綿糸を供給するために開発された紡績機はイギリスの産業革命の予備むずとなり、

生産された綿布は植民地のインドに輸出されてインドの手工芸を脅かした。

註記:ジュイ布とは直訳すると、ジュイの布。

主に2色使いのデザインの布や柄のことをいいます。

18世紀フランスのロココ調絵画を思わせるようなデザインが多いのも特徴の一つです。

 

 

「ポンパドゥール夫人」です!


インドに技術を伝えたのは!ディアスポラ=離散の民のアルメニア人!!!

 

[神に貼られた 見本帳も作成] 

インド更紗そのものは早くからヨーロッパで知られていた。

1600年代にイギリス、オランダ、フランスと相次ぎ東インド会社が設立されると、輸入量が格段に増加。

珍しさに加え毛織り物より軽く、色やデザインが豊富で、洗濯しやすいと人気を集めた。

生産が始まっていたヨーロッパで始めて最初に更紗の生産を始めたのは

南部の港町マルセイユとオランダのアムステルダムだったと言われる。

東京大学の名誉教授の深沢克己さんは、これらの地域からインドに技術を伝えたのは、

ユーラシア大陸各地に広がった「ディアスポラ=離散の民」のアルメニア人だったと指摘する。

これは西洋更紗西洋更紗トワルト・ジュイです!

業を煮やしたが既存の毛織物業者である。

このままでは工場が倒産し、生産が成り立たなくなると訴えた。

自国の産業を守るため、フランスでは

86年に更紗の輸入・生産、イギリスでは1700年に輸入が禁止された。

どれだけ取り締まろうとも、良いものが広まってゆくのが世の常だ。

特にフランスではルイ5世に愛され、

ファンションリーダーとしても名を馳せたポンパドゥール侯爵夫人堂々と禁を破るのだから始末が悪い。

手書きのインド更紗にフランス産のレースをあしらった豪華なドレスを身にまとった肖像画が残っている。

右下の写真は同時期にイギリスで作られたものだが、実際のドレスの雰囲気がわかる。

これはドレス「ローブ・アン・ラングレース」の一つです。

その鮮やかな赤を見れば、多くの女性が憧れたのもうなずける。

夫人は衣装崖ではなく、家具や親しい友人への贈り物にもトワルパントを使って自慢した。

それは当時、覇権を争うイギリスに対抗し、

自国の綿産業の振興するための政治的ジェスチューだったとの指摘もある。

衰えぬ人気を背景に、フランスでもついに18世紀後半、更紗の生産が解禁される。

しかし長く続いた禁止令と信仰の自由を認めたナントの勅令の廃止、

1685年の影響で、生産を手がけていたプロテスタントの一派ユグノーはほとんど亡命した後だった。

遅れを挽回すべく優秀な職人を探す密使がたどり着いたのが、

当時スイスにいたオーベルガンプラだったのである。

更紗をめぐる話は遠い海の向こうの話ではない。

同時代の日本にも、ポルトガルやオランダ、イギリスから更紗を載せた船は続々と押し寄せた。

 

 

これはインド更紗!!

これは婦女遊楽図屏風です!!

 

観桜遊楽図屏風!三角形が連なった鋸歯模様が鮮やか!彦根更紗=日本式の模様の更紗百反!!

 

江戸時代の風刺絵には、しばしば舶来ものの更紗を小袖や陣羽織に仕立ててきている様子が絵描かれている。

「観桜遊楽図屏風」で若者が来ている衣装を見てみよう。

白地全体に藍の円花分散らして、裾にはのこぎりの歯のように、

三角形が連なった鋸歯模様が鮮やかだった

鋸歯模様はインドネシアに輸出されたインド更紗の端に見られる図案で、

日本ではそうした一枚布の柄を生かし、着物に仕立てたようだ。

左下の陣羽織は、江戸時代初期に活躍した儒学者にして軍学者の山鹿素行のもの。

18世紀初期までに日本にもたらされた更紗を「古渡り更紗」と呼ぶが、

古渡り更紗!

この陣羽織は古渡り更紗であつらえたもっとも古い例の一つという。

珍しい異国の布はたとえ端切れでも大切にされ、紙などに丁寧に貼り付けられた見本帳が作られた。

代表的な見本帳は彦根藩主井伊家に伝わる「彦根更紗」=東京国立博物館蔵 だ。

染織り文化に詳しい五島美術館主任学芸員の佐藤留実さんによると、

1638年のオランダ商館の日記に「日本式の模様の更紗百反」との記述があるという。

「すでにこの時代に、オランダ商館を経由すれば好みのデザインの布を

インドに注文することができた」=佐藤さん というから驚く。

古渡り更紗は今でも愛好家が多い。実際の布を見たくて、国内外の博物館から問い合わせがあるという

奈良県の「古裂ギャラリーおおたに」を訪ねた。

店主の大谷みちこさんは

これが「古渡り更紗は端切れまで茶器を入れる仕覆や帛紗=ふくさ、たばこ入れなどに活用された」と語るものです。

古渡り更紗は端切れまで茶器を入れる仕覆や帛紗=ふくさ、たばこ入れなどに活用された」と語る。

日本でも染め色技術が研究されたが、インドほどに堅牢な染めは難しく、

やがて友禅など絹織物の染色技術が発展していった。

渡された見本帳をめぐり、

この小さな布が世界に与えた影響の大きさに思いを馳せた。   

岩本文枝 日経新聞記事より。

 


西洋更紗トワルトジュイは優雅で美しいコットンプリント!


 トワル・ド・ジュイ!西洋更紗!様々な花が散りばめられた・優雅で楽しいコットンプリント!!

 

[フランスで生まれた・コットンプリント= トワル・ド・ジュイ] 

トワル・ド・ジュイ(ジュイの布)とは、

18世紀にドイツ出身のプリント技師、クリストフ・オーベルカンプ (1738-1815年)が、

フランスのヴェルサイユ近郊の村、ジュイ=アン=ジョザスの工場で産み出した西洋更紗です。

人物が田園に遊ぶ、単色の田園風景のモティーフに代表される優雅で楽しいコットンプリントの数々は、

今でも フランスを代表する布地として愛されています。

本展では、西洋更紗トワル・ド・ジュイの世界を、2010年に工場設立250周年に湧き、

2015年にはオーベルカンプの没後200年を迎えたトワル・ド・ジュイ美術館の全面協力を得て、

日本国内で初めて本格的にご紹介いたします。

筆頭デザイナーのジャン=バティスト・ユエが数々の名作を生み出し、

その代名詞ともなった田園風景のモティーフの源泉をフランドルのタピスリーにたどり、

さらにはヨーロッパだけでなく日本でもセンセーションを巻き起こした更紗の世界を併せてご紹介し、

マリー・アントワネットを始めとする当時の

ヨーロッパの人々を夢中にさせた優雅で楽しいトワル・ド・ジュイの世界へとご案内いたします。

トワル・ド・ジュイとは

ドイツ出身のプリント技師、クリストフ=フィリップ・オーベルカンプ(1738-1815年)によって

ヴェルサイユ近郊の村、ジュイ=アン=ジョザスの工場で生み出された西洋更紗トワル・ド・ジュイ(ジュイの布)

トワル・ド・ジュイ(ジュイの布)です!

工場が設立された1760年から閉鎖する1843年までに

この工場で生み出されたテキスタイルのデザインは3万点を超えると言われ、

人物を配した田園風景のモティーフだけでなく、

様々な花が散りばめられた楽しいデザインのコットンプリントが数多く伝えられています。

 トワル・ド・ジュイ美術館の全面協力を得て開催される本展は、

西洋更紗トワル・ド・ジュイの世界を日本国内で初めて包括的にご紹介するものです。

田園モティーフの源泉をフランドルのタぺストリーにたどり、

世界中を熱狂させたインド更紗を併せてご覧いただくことで、

オーベルカンプの工場とトワル・ド・ジュイの誕生と発展の物語を紐解き、

独自の魅力を発見していただく機会となることでしょう。

[田園モチーフの源泉]

中世にその芸術的頂点を迎えたタペストリー。

トワル・ド・ジュイを始めとするヨーロッパのテキスタイルに描かれた田園モティーフは、

とりわけ15~17世紀に盛んに作られたフレミッシュ・タペストリーの中に花開いています。

本展では、トワル・ド・ジュイの代名詞ともなった、

これが西洋トワル・ド・ジュイです。

人物が田園に遊ぶモティーフの源泉の一つとして、

フランドルの美しい野山や田園風景を多色の羊毛で豪華に織り上げた

オーデナールデのタペストリーをご紹介します。

[インド更紗への熱狂]

トワル・ド・ジュイを始めとする西洋更紗の源泉は、

17世紀後半以降に東インド会社によってもたらされたインド更紗にあります。

エキゾチックな花や動物で彩られ、洗濯も可能だったこのコットンプリントは、

それまで絹やウールに親しんできたヨーロッパの人々の間に一大ブームを巻き起こし、

実用的な布としてドレスや室内装飾に取り入れられました。

日本でも熱狂的に受け入れられたインド更紗は、

着物や茶道具の仕服などに仕立てられて大切に受け継がれ、

現代でも多くの更紗ファンがその色あせない美しさに魅了され続けています。

 

 

西洋更紗・トワル・ド・ジュイ展!


トワル・ド・ジュイの工場の設立!小さな捺染工場!銅板プリントに広がる田園風景!!

 

[トワル・ド・ジュイの工場の設立]

爆発的な更紗の流行が絹やウールなどの伝統的なテキスタイルの生産者の怒りを買い、

フランスでは更紗の製作と綿の輸入だけではなく、

着用すら1686年から73年もの間禁止されてしまいます。

ついに、禁止令が解かれんとする頃、

パリの捺染工場からオーベルカンプのいたスイスに

優れた捺染技術者を求める使いが派遣されました。

弱冠20歳のオーベルカンプは誘いを受けてパリに赴き、

1760年にヴェルサイユ近くのジュイ=アン=ジョザスの地に自らの小さな捺染工場を設立。

これがのちに最も成功した西洋更紗となるトワル・ド・ジュイの工場の始まりでした。

[本も綿プリントに咲いた花園]

木版プリントによるテキスタイルは、

インド更紗のエッセンスを引き継ぐエキゾチックで様式化されたデザインから始まり

次第にフランス流の花模様を発展させ、3万種を超えるデザインが生み出されました。

バラ、ライラック、忘れな草など、

身近な花々が西洋の装飾文様とともに自然界の姿そのままに咲き乱れ、

インド更紗とは趣の異なるフランス流の花園が展開したのです。

これは手書きのインド更紗です!

なかでも、ぎっしりと生い茂る草花が描きこまれた

《グッド・ハーブス(よく売れた「素敵な草花」の意)》

は最も人気のあったデザインの一つで、

様々なヴァリエーションが幾年にも渡って製作されました。

[銅板プリントに広がる田園風景」

1770年からオーベルカンプは銅版を用いた技術を採用し、

人物を配した風景を単一の色調で染め上げる銅版プリントのテキスタイルに力を入れていきます。

田園風景、神話や文学、歴史、アレゴリーなど、多岐に渡る主題で数々のデザインを銅版プリントによって製作。

動物画家のジャン=バティスト・ユエをその筆頭デザイナーに採用し、

優美な物腰の人物像が動物たちとともに田園の中に遊ぶ、

洗練されたデザインのテキスタイルを作り上げていきます。

好景気にも後押しされ、事業は順調に成長して工場は大規模化。

その評判は宮廷にも届くところとなり、

1783年にはルイ16世によってオーベルカンプの工場は「王立」の称号を与えられました。

[受け継がれる西洋更紗の魅力]

フランス革命後には、オーベルカンプの工場も、徐々に衰退の道をたどることになります。

1815年にオーベルカンプが死去して30年もたたないうちに工場は閉鎖しています。

しかし、トワル・ド・ジュイを始めとする西洋更紗の魅力は、

これが西洋更紗のトワル・ド・ジュイ!!

ウィリアム・モリスやラウル・デュフィなど、後世のアーティストたちに影響を与えただけでなく、

今日でも優雅で楽しいフランスのデザインの一つとして様々な形で親しまれています。

西洋更紗トワル・ド・ジュイ展 記事より紹介。

 

 

これは苗族のお面!!

 

これはアイヌ文様!


アイヌ文様、苗族=ミャオ 文様、ベマ族文様!海を渡る更紗!!

 

私はここのところアイヌ文様、苗族=ミャオ 文様、ベマ族文様などの美しい文様に携わってきたことで、

文様に大きな関心があり日経新聞で「海を渡る更紗」を見た瞬間その美しさに驚愕し、

これを取り上げて投稿しようとなりました。

いつも多くのことに気を配っていないと大事なことを見落としかねませんので、

日経新聞の日曜版が待ち通しい今日この頃です!

日曜版の THE STYLE には私の好きな記事の宝庫で、日曜日が待ち通しく見逃せません!

今日紹介した――-インド更紗に続き、西洋更紗、ジュイ布、彦根更紗、西洋更紗トワル・ド・ジュイなど

魅力に満ちた更紗の数々が紹介でき

自身の勉強になり大変有効な時間となり良かったと思っています!

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ABOUTこの記事をかいた人

私はかなり高齢な建築家です。出身は伊豆の湯ヶ島で多くの自然に触れて育ちました。少年時代の思い出も記事になっています。趣味が多くカテゴリーは多義に渡ります。今は鮎の友釣りにハマっています。自然が好きで自然の中に居るのが、見るのが好きです。ですので樹木は特に好きで、樹木の話が多く出てきます。 電子書籍作りも勉強して、何とか発売できるまでになりました。残り少ない人生をどう生きるかが、大事です。