アフリカのポンペイ・アルジェリア!古代ローマ帝国の植民都市ティムガットの遺跡!長い間砂に埋れていたため保存状態が良い!!

Pocket

アフリカのポンペイ・アルジェリア!ティムガットの遺跡!

アフリカのポンペイ・アルジェリア!古代ローマ帝国の植民都市ティムガットの遺跡!長い間砂に埋れていたため保存状態が良い!!

 

北アフリカのアルジェリアにある古代ローマ帝国の植民都市、ティムガットの遺跡。

ローマ流の秩序に従い整然と区画された市街には広場や市場、儀式用の門、

10箇所以上の浴場、観客三千五百人が入れる大劇場などが配置されていた。

長い間砂に埋れていたため保存状態が良く、「アフリカのポンペイ」と呼ばれる。

古代ローマの都市計画を今に伝える最良の遺跡で1982年、ユネスコの世界文化遺産に登録された。   

行き方ー成田空港ーコンスタンチーの空港=ドーハ、アルジェ経由、約28時間ー車で約2時間半。    

日経新聞 The STYLE NATIONAL GEOGRAPHIC より。

 

ではこれに関連する記事を詳細に検索します!

 

 


砂漠から丸ごと姿を現したローマ帝国の古代都市!

砂漠から丸ごと姿を現したローマ帝国の古代都市!!

 

[砂漠から丸ごと姿を現したローマ帝国の古代都市]     

千年間砂の下に埋もれていた世界遺産ティムガッドの物語! 

都市全体が消えることなど滅多にない。

だが、北アフリカのヌミディア地方に丸ごと姿を消した都市があった。

西暦100年頃、古代ローマ皇帝トラヤヌス帝によって建設されたティムガッドだ。

ティムガッドは当初、ローマ帝国の第3軍団アウグスタの駐屯地として建設され、

のちに退役軍人の植民都市として繁栄し、数百年にわたり栄華を極めた。

おかげで、侵略者にとっては魅力的な標的だった。

430年のバンダル人による侵攻の後、何度も攻撃が繰り返されて弱体化し、

完全な復興を果たせないまま、700年代に打ち捨てられてしまう。

(参考記事:「ローマ帝国 栄華と国境」)

 砂漠が街をのみ込み、やがてすっかり砂に埋もれた。

その後、ティムガッドが再び見出されたのは、砂漠の下に消えてから1000年が経過した1700年代のこと。

発見者は、異端の英国人探検家だった。

[英国貴族の学者ジェームズ・ブルース]  

 英国スコットランドの貴族ジェームズ・ブルース!

1763年、英国スコットランドの貴族ジェームズ・ブルースは、

沿岸都市アルジェ(現在はアルジェリアの首都)の英国領事に着任した。

エチオピアにある青ナイルの水源を発見したことで知られる人物だ。

ジェームズ・ブルースの肖像画。

1762年、ポンペオ・ジローラモ・バトーニ作。

英スコットランド国立美術館所蔵。

(PHOTOGRAPH BY BRIDGEMAN/ACI)

ブルースは、背が高く堂々としており、好奇心旺盛で貪欲な学者だった。

アルジェに渡る前、イタリアで数カ月を費やして、アフリカ地域の歴史と古代における役割を詳しく調べていた。

だが短気で頑固なブルースは、着任してすぐにロンドンにいた上司と衝突し、1765年に職を失ってしまう。

それでも彼は英国に帰らず、フィレンツェの画家ルイージ・バルガーニとともにアフリカ各地へ冒険の旅に出た。

その旅で、ブルースは珍しい人々や訪れた場所を記録し、バルガーニは絵を描き残した。

[懐疑と不信の眼差し]    

この旅の初めの頃に、ブルースとバルガーニは古代文明の痕跡を探そうと、アルジェリアの砂漠まで南下した。

2人はそれまでに人里離れた場所でローマ時代の遺跡を数カ所すでに発見していた。

そして1765年12月12日、ティムガッドとおぼしき場所にたどり着く。

ブルースとバルガーニは、オーレス山地の北斜面の近くにあるその地を数百年ぶりに訪れたヨーロッパ人だと考えられている。

「小さな街だが、優美な建物が立ち並ぶ」とブルースは日記に書いた。

彼はこのとき、廃墟の群れがトラヤヌス帝によって1000年以上前に作られた都市の遺跡だと確信していた。

「小さな街だが、優美な建物が立ち並ぶ」とブルースは日記に書いた!

西暦2世紀に建設されたティムガッドの円形闘技場。発掘開始から10年後の1893年に撮影。

保存状態は極めて良好。

パリ、フランス学士院図書館所蔵。

(PHOTOGRAPH BY GÉRARD BLOT/TMN-GRAND PALAIS)

街を発見したその日、ブルースは「トラヤヌス帝の凱旋門」について書き記し、バルガーニは絵を残した。

翌日、2人が再び訪れて調べてみると、円形劇場を発見した。

ブルースは、西暦138年にハドリアヌス帝の後を継いだローマ皇帝アントニヌス・ピウスとその皇妃である

大ファウスティナの彫像を砂の中から発掘し、「えもいわれぬ美しさ」があると評している。

大ファウスティナの彫像を砂の中から発掘し、「えもいわれぬ美しさ」があると評している!

ブルースは彫像を砂に埋め戻し、さらに旅を続けた。

彼は北アフリカとエチオピアの各地でさらに多くの遺跡を見つけて書き残し、青ナイルの水源も突き止めたと主張した。

バルガーニは1770年に亡くなってしまったが、ブルースは1774年にロンドンに戻り、これらの大発見について報告した。

ところが、彼に向けられたのは懐疑と不信の眼差しだった。

この反応が信じられず、ブルースはスコットランドに隠居する。

それでも彼は、1780年に『ナイル探検』という5巻にも及ぶアフリカ時代の回顧録を書き始めた。

1790年に出版にこぎつけ、その4年後に亡くなったが、まだ英国人の多くは彼の業績を認めていなかった

 

 

アグアダ・フェニックスの巨大基壇の3D画像!


マヤ史上最大の遺跡を発見、浮かび上がる謎!!

 

[マヤ史上最大の遺跡を発見、浮かび上がる謎]     

突然の建造の意図は? オルメカ文明との関係は? 専門家の推論!  

中米メキシコで、マヤ文明が栄えた地域としては最古かつ最大の構造物が発見された。

南北1400メートル、東西400メートルにわたって広がる土の基壇

(上に建物を建てるための基礎部分)で、今から3000年前に造られたものという。

6月3日付の学術誌「Nature」に論文が発表された。

マヤ文明の最盛期は「古典期(西暦250年~900年)」とされるが、近年の研究では、

その1000年以上前により大きな構造物が造られていたとする見方が広がりつつある。

今回の発見は、この考えを支持するものだ。

発見場所は、メキシコの首都メキシコシティーから東に約850キロ、タバスコ州にあるアグアダ・フェニックス遺跡。

この遺跡は、マヤ文明発祥の地とされるマヤ低地にある。

発端は2017年のLiDAR調査。

レーザー技術を使い、航空機から密林の樹冠の下に広がる構造をとらえる調査方法だ。

すると、何百年もの間、なかば森に埋もれ見過ごされてきた放牧地から、驚くべきものが浮かび上がった。

巨大な基壇と、そこへ通ずる少なくとも9本の道路だ。

アグアダ・フェニックスの航空写真!遺構が森に埋れ隠されていた!

アグアダ・フェニックスの航空写真。

LiDARなしでは、遺構がなかば森に埋もれた放牧地にいかに「隠されていた」かがわかる。

(PHOTOGRAPH BY TAKESHI INOMATA)

なぜ、これほどの遺構が今まで見つかっていなかったのだろう?

「説明が難しいのですが、この巨大な構造は、現場を歩いてもよくわかりません」と、

論文の筆頭著者である米アリゾナ大学の考古学者、猪俣健氏は話す。

「高さは9メートル以上ありますが、水平方向にあまりに大きいため、その高さを実感できないのです」

[「想像するしかない儀式」]   

放射性炭素による年代測定の結果、基壇の建設が始まったのは紀元前1000年頃とわかった。

しかし、アグアダ・フェニックスでは、これ以前の建造物は見つかっていない。

つまり、少なくともこの時期までは、この地域の住民(おそらく古典期マヤ人の祖先)は、

一時的な野営地を転々とし、狩猟採集生活を送っていたとみられる。

ではなぜ、どのようにして突然こうした巨大構造物の建造に至ったのか。

猪俣氏の推定によると、基壇とその上の建造物の総体積は

およそ370万立方メートルと、エジプト最大のピラミッドすらもしのぐ

また、建造には5000人が終日働いても、6年以上を要したと算定した。

「ここは儀式場だったと、我々は考えています」と同氏は話す。

「想像に過ぎませんが、おそらく行進やその他の儀式に関連して人々が集まった場所だったのです」

この構造物の上や周辺から住居は見つかっていないため、近くに住んでいた人数は不明だ。

しかし猪俣氏は、基壇の巨大さから、アグアダ・フェニックスを作った人々は、徐々に狩猟採集生活を離れていったと考えている。

トウモロコシの栽培がこれを促進した可能性が高く、遺跡からはその証拠も見つかっている。   

NATIONAL GEOGRAPHIC NEWS より。

 

 


キルワ・キシワニの島の「世界で最も美しい町」!

中世東アフリカに開花した「世界で最も美しい町」!タンザニア沿岸から約2キロ離れたキルワ・キシワニの島!!

 

[中世東アフリカに開花した「世界で最も美しい町」]   

タンザニア沿岸から約2キロ離れたキルワ・キシワニの島には、見事な遺跡群が密集している。

サンゴ石を使った宮殿や大モスクの跡は、この小島が東アフリカにおける金交易の拠点だった時代の名残だ。

中世に栄えたキルワは、スワヒリ海岸と呼ばれる沿岸に並ぶ交易都市群の中心だった。

「スワヒリ」は「沿岸に住む者」を意味するアラビア語に由来し、

今ではこの一帯で使われる言語の名称にもなっている。

スワヒリ語は、以前から一帯で話されていたバンツー語に、ペルシャ語やアラビア語の単語を取り入れた言語だ。

アラブやペルシャの慣習は、スワヒリの建築や芸術、そして宗教にも反映されている。

いずれにおいても、混じり合ったこれらの文化の面影が強く見て取れる。

(参考記事:「西アフリカ古代人のゲノムを解読、民族拡大の定説に一石」)

スワヒリ海岸とイスラム文化圏のつながりは、19世紀ヨーロッパの植民地主義者がキルワに抱いた偏見を補強した。

1859年にキルワを訪れた英国の探検家リチャード・バートンをはじめ、ヨーロッパの学者たちは、

アフリカ人は非アフリカ人に対し「劣っている」との考えから、

石でできたこの都市をアフリカ土着の文化が作れたはずはないと信じ込んだ

つまり、キルワは全て外部から来た人々によって作られたに違いないと主張したのだ。

キルワは全て外部から来た人々によって作られたに違いないと主張したのだ!

14世紀のスルタン、スライマン・イブン・アル=ハサンによって鋳造された硬貨。

大英博物館所蔵。(SCALA, FLORENCE)

近年の考古学的発見によって、実態はもっと複雑だったことがわかっている。

キルワをはじめとするスワヒリ海岸の交易都市は、東アフリカの土着の文化を

強固な基盤として、様々な影響が絡み合って発展したものだったのだ。

[タンザニア沿岸から約2キロ離れたキルワ・キシワニの島には、見事な遺跡群が密集している。

サンゴ石を使った宮殿や大モスクの跡は、この小島が東アフリカにおける金交易の拠点だった時代の名残だ。

中世に栄えたキルワは、スワヒリ海岸と呼ばれる沿岸に並ぶ交易都市群の中心だった。

キルワ・キシワニの島には、見事な遺跡群が密集している!

「スワヒリ」は「沿岸に住む者」を意味するアラビア語に由来し、

今ではこの一帯で使われる言語の名称にもなっている。

スワヒリ語は、以前から一帯で話されていたバンツー語に、ペルシャ語やアラビア語の単語を取り入れた言語だ。

アラブやペルシャの慣習は、スワヒリの建築や芸術、そして宗教にも反映されている。

いずれにおいても、混じり合ったこれらの文化の面影が強く見て取れる。

(参考記事:「西アフリカ古代人のゲノムを解読、民族拡大の定説に一石」)

スワヒリ海岸とイスラム文化圏のつながりは、19世紀ヨーロッパの植民地主義者がキルワに抱いた偏見を補強した。

1859年にキルワを訪れた英国の探検家リチャード・バートンをはじめ、ヨーロッパの学者たちは、

アフリカ人は非アフリカ人に対し「劣っている」との考えから、

石でできたこの都市をアフリカ土着の文化が作れたはずはないと信じ込んだ

石でできたこの都市をアフリカ土着の文化が作れたはずはないと信じ込んだ!

つまり、キルワは全て外部から来た人々によって作られたに違いないと主張したのだ。

14世紀のスルタン、スライマン・イブン・アル=ハサンによって鋳造された硬貨。

大英博物館所蔵。(SCALA, FLORENCE)

近年の考古学的発見によって、実態はもっと複雑だったことがわかっている。

キルワをはじめとするスワヒリ海岸の交易都市は、東アフリカの

土着の文化を強固な基盤として、様々な影響が絡み合って発展したものだったのだ。]

[年代記から浮かび上がる豊かな歴史]   

キルワでは1958~1965年に初めて本格的な発掘調査が行われた。

調査を率いた英国の考古学者ネビル・チティックは、植民地主義目線の「外来者理論」を覆す歴史を明らかにした。

チティックは、キルワの人口の大半がアフリカ人だったと結論づけた。

エリート層の一部はインド洋の向こう側にあるイスラム圏にルーツを持つことが多かったものの、

島が海の彼方から統治されていたわけではないことを示唆する証拠が見つかった。

キルワ島を治めていたのは、何世代も前からアフリカに根を下ろしていたペルシャ系やアラブ系の人々だった。

キルワ史の様々な側面を知るためにチティックが重視したのは、王の系譜を記した「キルワ年代記」だ。

この書物のほか、硬貨や陶器などの遺物を検証することで、

チティックや後世の学者たちは、豊かで複雑なキルワの歴史を描き出してきた。

 

 

市街には広場や市場儀式用の門10箇所以上の浴場長い間砂に埋れていたため保存状態が良く!

市街には広場や市場儀式用の門10箇所以上の浴場長い間砂に埋れていたため保存状態が良く!

 

今日のまとめ。

北アフリカのアルジェリアにある古代ローマ帝国の植民都市、ティムガットの遺跡。

ローマ流の秩序に従い整然と区画された市街には広場や市場、儀式用の門、

10箇所以上の浴場、観客三千五百人が入れる大劇場などが配置されていた。

長い間砂に埋れていたため保存状態が良く、「アフリカのポンペイ」と呼ばれる。

古代ローマの都市計画を今に伝える最良の遺跡で1982年、ユネスコの世界文化遺産に登録された。  

千年間砂の下に埋もれていた世界遺産ティムガッドの物語! 

都市全体が消えることなど滅多にない。

だが、北アフリカのヌミディア地方に丸ごと姿を消した都市があった。

西暦100年頃、古代ローマ皇帝トラヤヌス帝によって建設されたティムガッドだ。

ティムガッドは当初、ローマ帝国の第3軍団アウグスタの駐屯地として建設され、

のちに退役軍人の植民都市として繁栄し、数百年にわたり栄華を極めた。

おかげで、侵略者にとっては魅力的な標的だった。

430年のバンダル人による侵攻の後、何度も攻撃が繰り返されて弱体化し、

完全な復興を果たせないまま、700年代に打ち捨てられてしまう。

1000年間も砂に埋もれていた世界遺産「ティムガットの遺跡」は保存状態がよく「アフリカのポンペイ」と呼ばれるそうだ!

1000年間も砂に埋もれていた世界遺産「ティムガットの遺跡」は保存状態がよく「アフリカのポンペイ」と呼ばれるそうだ!

建設された当時は数百年にわたって栄華を極めたとは驚きだが、侵略者にとっては魅力的な標的だったのです!

都市全体が丸ごと消えることなど滅多にないが、北アフルカニのアルジェリアには

古代ローマ帝国の植民都市「ティムガット」が実際にあったとは、ただただ驚きでしかない。

遺跡の画像とくまなく掲載しますので特とご覧下さい!!

Pocket

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

ABOUTこの記事をかいた人

私はかなり高齢な建築家です。出身は伊豆の湯ヶ島で多くの自然に触れて育ちました。少年時代の思い出も記事になっています。趣味が多くカテゴリーは多義に渡ります。今は鮎の友釣りにハマっています。自然が好きで自然の中に居るのが、見るのが好きです。ですので樹木は特に好きで、樹木の話が多く出てきます。 電子書籍作りも勉強して、何とか発売できるまでになりました。残り少ない人生をどう生きるかが、大事です。